DAY55

 

 

「はっはっはっはははははぁはっはっはっはははははぁ……ハハハハハ……」

 アレからもう何日が経過しただろうか?

「アレからもう何日が経過したのぉ!アレからもう何日が経過したのぉ!」

 あんなに暑かった日々が終わり、もうすでに僕の手の甲は霜焼け気味だ。

 思えばここ数ヶ月の間、全くと言っていいほど彼女のことは思い出さなかった。それなのに何故だろう?約束の日が近付くにつれて、彼女との思い出が鮮明にプレイバックされるんだ。

 朝方、青黒い空、遠く連なる細切れ秋雲……明るくなって来たなと思っていても、案外まだまだ暗かったりして……。

「嗚呼、狂ってしまいそうだ」

 いや、もう既に狂っているか。人は何故歳を重ねる毎に狂っていってしまうのだろうか?

「ハハ、違うか」

 人なんてもんは元来狂っていてただ単に月日が流れるに連れ己が狂っているということに気付くだけなのかもしれない。

「月が綺麗だということに気付くだけなのかもしれない……」

 

「馬鹿野郎が!」

 青春時代が首を絞める。

 

 

  きっかけ

 

「春子おはよう!」

「おはよう!純子」

 春子は今日も綺麗だ。血色良く美しい。そしてとても生命力に満ち溢れている。僕とはまるで正反対の存在だ。

「蒼くんおはよう」

「あっ、う、うん。 おはよう」

 春子だけが僕に話しかけてくれる。クラスに、いや、学校に一人も友達がいない僕に、唯一春子だけが話しかけてくれる。だけど僕はいつもぎこちない返事しかできない。だけどそれでもいつも春子は僕に話しかけてくれる。そして、色んな話をしてくれる。

「蒼くん、今日の放課後、暇?」

「えっ?」

 春子が僕を誘った。今までそんなことはなかった。教室で話をするだけだった。席が前後ろの関係というだけで、特に深い交遊関係はなかった。それなのに春子は今日、僕を、誘った。唐突に、何の前触れもなく、誘った。

「ねぇ、どうなの?」

「えっ、あっ、あっ、暇だよ」

「よし!それじゃあちょっと買い物に付き合って」

「う、うん。わかった」

 胸の鼓動が高まっているのが分かった。僕は高校二年生にもなって女の子とデートに行ったことがなかった。それどころか、異性とまともに会話をしたことすらない始末だ。

 果たしてこんな僕でいいのだろうか?ドキドキとした期待感よりも、メキメキと張り裂けそうな不安感が僕の胸を押し潰しそうだった。

 いつの間にか最後のチャイムが鳴った。時が経つのはとても早く、あっという間に下校の時刻となった。まるで時を忘れてしまったかのようで、僕は何だか不思議な気持ちになっていた。

 今日もいつも通り一人寂しく昼食をとったはずなのに、今日もいつも通り一人で体育を見学したはずなのに、何も覚えていないほどに、今日という一日はあっという間だった。

「お待たせ、じゃあ行こっか!」

「う、うん」

 春子が僕に微笑みかける。僕はすぐさま目を背ける。手に何か温かなものが当たる。見ると春子が僕の手を握っていた。

 容姿端麗、成績優秀、周りからの人望も厚い学校一の人気者の春子が、学校一存在感がない嫌われ者の僕と、今、手を繋ぎ歩いている。

「どこ行こっか?」

「えっ、あっ、あっ、き、決めてないの?」

「うん、ホントは買い物なんてしたくないんだ。さっきのは嘘。デタラメ。ただ蒼くんと出かけたかっただけなんだ」

 これは現実だろうか?これはもしかして僕の妄想ではないのだろうか?そもそも現実の定義とは一体何だろうか?このままではもうどうにかなってしまいそうだ。いっそ夢であってくれた方が楽かもしれない。

「どうしたの?」

「い、いや、きゅ、急に変なこと言うから」

「変なことかな?私はただ正直な気持ちを言っただけだけど」

 悪い癖で僕はすぐに現実逃避をしてしまう。さっきから現実の定義とは何かを考えて、この非日常的な状況から脱走しようと企んでいる。

「今、何考えてる?」

 ドキッとする質問を春子は何の躊躇いもなく投げかけてくる。

「私から逃げないで」

 春子には何でもお見通しだ

「ゴメン」

 僕は素直に謝ることしかできなかった。

「私、好きだよ。蒼くんのそういうところ。だから別にいいんだよ。いいんだけどね、だけどね、だけど今日だけは、ちゃんと私と向き合って欲しいんだ」

 僕の中の何かが崩れた。確かに崩れる音がした。人間としての本能や衝動が、僕の理性を瞬く間に奪い始めた。

「分かったよ。今日だけでもちゃんと春子と向き合うよ」

 こんなにもスラスラと言葉が出てきたのは生まれて初めてかもしれない。精神や肉体、脳の働きが全て一致することにより導き出された一点の曇りもない二十五文字だった。

「でも、何で僕なの?僕なんて友達のいない何の取り柄もない人間なんだよ?」

 悲しみを堪えながら必死にそう問いかけた僕に、春子は優しく答えてくれた。

「そんなことないよ。蒼くんは優しくて素敵な人だと思うよ。ちょっと体が弱くて、ちょっと人と話すのが苦手なだけ。自信を持っていいんだよ。一人でいることは恥ずかしいことじゃないよ。むしろそれは良いことで、自由で素敵な時間を過ごせるのに、学校っていう組織が一人を悪と思わせるだけなんだよ」

 僕は初めて他人に認められたような気がした。いや、この世間と言う柵の中で、初めて呼吸ができたような気がした。

「嬉しいよ、春子。僕も君を好きって言っていいかな?」

「いいよ。いいんだよ。言って。いっぱい言って」

 もう僕の心に迷いはなかった。

「好きだよ。春子」

 二人は当てもなく街を歩き続けた。五月初めのこの街は、少しだけ寒くて、五月病のせいか人々はちょっと憂鬱そうで、だけど僕の心はいつもと全然違ってて、輝いてて、二人の周りだけが全ての幸せを集約しているような気がして、もう何もかもがどうでもよくなって、僕はとにかく幸せな気持ちで胸がいっぱいだった。

「私、死のうと思うんだ」

「えっ?」

 一瞬何が起こったのか分からなかった。何を言っているのかが分からなかった。春子も風も街も温度も、全てが嘘のように思えた。

「だから今日は最後に蒼くんと過ごしたかったんだ」

 最後?なんで?嫌だよ。死んで欲しくないよ。こういう時、何て言ったらいいのかな?何を言っていいのか全然分からないよ。

「ダメだよ」

 素直な言葉がこぼれ出た。ありきたりな言葉だけど、こういう場面での言葉選びの方法を知らなかった僕にとっては、精一杯の心からの叫びだった。

「もう決めたの」

 春子の決意に満ちた表情が僕を襲う。

「何でそんなこと言うんだよ?僕は春子に死んで欲しくないよ。せっかく仲良くなれたのに。せっかく心が通じ合えたのに。あんまりじゃないか」

 感情が驚くほどスラスラと口をついて出てきた。怒りとも悲しみともとれるような想いの丈を、僕は全て嘘偽りなく吐き出すことができた。

「何があったんだよ!」

 自分が自分じゃなくなっていくようだった。

「絶対に力になるから、全て打ち明けてよ」

 春子が唇を噛みしめた。そして、ゆっくりと瞳を閉じ、顔を伏せながらこう言った。

「私、実の父親にレイプされ続けているの」

 涙が出た。言葉にならないとはこのことだった。怒りなのか憎しみなのか、悲しみなのか憤りなのか、何かは分からない何かが、僕の中を渦巻き轟々と蠢き始めた。

「僕が殺す」

 信じられない言葉がこぼれ落ちた。どこか遠くから聞こえたようなその言葉は、紛れもなく僕の口から発せられた空気振動だった。

「ダメ、蒼くんを巻き込みたくない。蒼くんを犯罪者にしたくない」

 春子が悲しそうに僕を見つめた。しかし、僕の決心は固かった。

「君の為ならそれでもいいんだよ。君が望むなら、僕は君のお父さんだって殺すよ。君の為ならそのくらい容易いことなんだよ。白紙だった人生に色を付けてくれた春子の為なら、僕は何だってできるんだ」

「……ありがとう」

 春子が崩れ落ちた。顔を覆いながら膝から崩れ落ちた。咽び泣く声と熱を帯びた液体が、アスファルトという無機質な灰色にただただ無音で吸い込まれていった。

 

 僕はしゃがみ込み、春子を優しく包み込むように抱いた。

「大丈夫だよ、安心して。今から君を救ってあげるからね。今まで辛かったね。でももう今日で終わりだよ。終わりにするよ。全て、終わりにするからね」

 春子が何かを言ったような気がしたが、迸る冷たい風にそれは掻き消されてしまった。

 

 

  決行

 

 春子が落ち着くまで、僕たちはしばらくの間抱き合っていた。お互いの気持ちを整理するように、僕らは一心に抱き合っていた。

 どれくらいの時間が経っただろうか?鼓動が落ち着くのを見計らい、僕たちは近くのベンチへと腰かけた。そして、作戦決行までのプランを話し合った。

 プランといっても何も難しいことはない。ただ僕が春子の家に行き、春子の父親が帰ってきたら台所にある包丁で刺し殺すというものだ。

 そして、僕は自首をする。警察には春子の為に理由は言わない。ただ殺したという事実だけを言い、その後は一切口を利かない。だんまりを決め込む。そういったプランだ。

「やっぱり自首はしないで私と逃げよう」

 春子が哀願するように僕を見つめる。僕はしっかりと春子を見つめ返し答える。

「それはできない。逃げても良いことなんて一つもないから。それに、僕は少年法に守られる。だからきっとすぐに出てこられると思う。自首すれば尚更すぐに。そうしたら一緒に暮らそう。そこから全てをやり直そう」

 春子は泣きながら何度もありがとうと言った。何度も、何度も、何度も何度も言い続けた。僕はその悲しい質感を鼓膜から切り離すまでにかなりの時間を要した。

「そろそろ、行こっか」

 僕たちは重い腰を上げ、春子の家へと向かった。春子の家に着くまでの道中、僕たちは一切言葉を交わさなかった。お互いの決心が揺るがないように、強がることで自分自身を保とうとした。強がることを相手への優しさとした。

「着いたよ。ここが私の家」

 いよいよか。僕は何ともいえない高揚感を感じていた。と同時にある疑問が沸き起こった。

「お母さんはいないの?」

 自分でも意識しないうちに、僕はその質問を春子に投げかけていた。

「……うん。お母さんは少し前に死んじゃっていないの。だから安心して。邪魔が入ることはないから」

「そっか、そうなんだ。分かったよ」

「キッチンはここよ。そして包丁はこの中」

「うん、分かった」

「後一時間くらいで帰ってくると思うから、それまで私の部屋で待ってよう」

「うん」

 春子が自分の部屋へと僕を誘った。僕たちは自然と身体を重ね合った。どちらからでもなく、そうなることが必然的に決まっていたかのように、僕たちは自然の流れに身を任せた。それがまるで自然の法則であるかのように、僕たちはただお互いを優しく愛でた。

 今日は本当に時が経つのが早い。あっという間に父親が帰ってくるはずの時間となった。

「もうすぐ帰ってくるわ」

「いよいよか」

 僕は酷く落ち着いていた。何故だろう?普通は取り乱してもおかしくないこの状況で、僕は今、とても穏やかな気持ちに包まれている。

「笑ってるの?」

 春子にそう言われて、自分が微笑を浮かべていることに気が付いた。

「何だか、とっても不思議な気分なんだ」

 春子は微笑んだ。

「実は、私もよ。何だか、本当に不思議ね」

 僕も微笑み返す。

「今から人を殺すっていうのにね」

「えぇ、全然怖くないわ」

「きっと二人一緒だからだよ」

「そうね、二人でなら何でもできそうな気がするわ」

 僕は春子に優しくキスをした。もうしばらくは重ねられないかもしれないその唇を、しっかりと噛みしめながらキスをした。

 すると次の瞬間、玄関のドアが荒々しく開く音が聞こえた。

「帰ってきたわ」

 心臓が急に脈打つのを感じた。さっきまであんなに落ち着き払っていた心が、瞬く間に掻き乱されていくようだった。

「おーい、春子。今帰ったぞ。いるんだろう?お父様が帰ってきたんだ、すぐに降りてこい」

 こいつは狂っている。僕はすぐに直感した。こいつはとんでもなく救いようのないクズだ。殺されて当然の男だ。僕が殺すしかない。僕が殺すしかないんだ。

 言いようのない使命感に駆られとても興奮していた僕は、勢い良くキッチンのドアを開け即座に包丁を取り出し、すぐさまその男のいるリビングへと向かった。

「おい、お前は誰だ!」

 春子の父親が驚きと恐怖の表情を浮かべながら威嚇するように僕を牽制する。

「今から僕はお前を殺す!」

 僕は勢いをつけ春子の父親へと向かっていった。春子の父親は慌てふためき床にすっ転んだ。僕はその上に跨がり一気に包丁を振り下ろした。刺した感覚はあまりなかった。包丁は肩の辺りに刺さっているようだった。春子の父親は苦痛に顔を歪めながら叫んだ。

「お前、一体どういうつもりなんだ!なんで俺が殺されなくちゃならないんだ!」

 血がドクドクと流れている。

「お前は春子に酷いことをした!それが許せなかった!お前は殺されて当然のクズ野郎だ!だから僕はお前を殺すんだ!」

 肩に刺さった包丁を抜き、もう一度、今度は体の中心付近へと突き刺す。春子の父親は、言葉にならない奇声を上げ悶絶した。

「どうだ!自分の罪の重さを思い知ったかこのクズ野郎!」

「糞野郎!知るか!春子が良い女なのが悪いんだ!春子がいつも俺を誘うんだ!全部春子が悪いんだ!お前もどうせヤリたいと思ってるんだろう?!アイツとヤルことばかり考えてるんだろう?!この偽善者が!」

 目の前が真っ暗になった。もうそこからの記憶はない。気付いた時には春子の父親は見るも無惨な姿で息絶えていた。床には全ての血液が出てしまったのではないかと思えるほどの赤が広がっていた。

 僕は恐ろしくなり、すぐにその場から離れた。そして、すぐさま春子に警察を呼んでもらい、当初の計画通り潔く自首をした。

 

 

  覚悟

 

「俺が死ねば保険金が入るから、少なくともお前は救われる。だから春子、今すぐ俺を殺してくれ」

 

 私は春子、高校二年生です。容姿に恵まれ、勉強もでき、みんなに対し気さくに明るく振る舞っているので、学校では少し人気者です。入学してすぐに、周りから一目を置かれる存在となりました。

 しかし、私には人には絶対に言えない秘密がありました。それは、お父さんとイケナイ関係にあるということです。

 お父さんは私のことを愛していました。それは単なる親子の愛情ではなく、度を超えて歪み切ったおぞましい愛情でした。

 私が初めてお父さんを受け入れたのは、十歳の時でした。それまでも様々な形での愛情表現はされていたのですが、いよいよ我慢の限界に達したのか、その日、お父さんは私の全てを奪いました。

 その日から私は、よく笑う気さくな良い子になりました。周りの人間に対し明るく気丈に振る舞うことで、心の傷から目を逸らそうとしました。その歪な愛情表現がエスカレートしていく度に、私は私に嘘を吐きニコニコと偽りだらけの表情を振りまいてきました。

 そして、ずっとずっと心の中で呪文のように唱えていました。「お父さんなんて死んでしまえばいいのに、罰が当たればいいのに」と。

 見て見ぬ振りをすることしかできない母親に対してもそうです。この女は私が最も軽蔑すべき人間崩れの一人でした。「二人共死んでしまえばいいのに、二人で不幸のどん底に落ちてしまえばいいのに」と私はいつもいつも戻らなくなった汚物塗れの笑顔を鏡に映しながらそう呟いていました。

 そんな願いが通じたのか、私たち家族に突如として黒い影が覆い被さりました。馬鹿な父親が借金の連帯保証人になり、莫大な借金を背負ったのです。

 今から約一ヶ月前、高校二年生になったばかりの頃でした。私は心底喜びました。上手にその喜びを表す表情ができたかは分かりませんが、私は本当に心から喜びました。

 そして、母は死にました。

 世間知らずだった母は、その借金を返す為にギャンブルに手を出し、重度のギャンブル依存症となり、挙げ句の果てに借金を増やして自殺をしてしまったのです。わずか数週間の出来事に、父は言葉を失っていましたが、私は一人陰で笑っていました。いつもと同じ笑顔のまま、心の底から笑っていました。

 そんな失意のどん底にいる中、父が言ったのです。「春子、俺を殺せ」と。

 父は、自分が死ねば保険金が手に入るから、俺のことを殺せと言いました。しかも、自殺は怖くてできないから殺してくれ、最後は愛するお前に殺されたい、などと自分勝手な願望をも押し付けてきました。

 しかし、そこで私は不思議なことに、殺してあげたい、という慈悲にも似た感情を抱きました。最後は私の手で優しく、愛情を込めて、今までの全てを込めて、殺してあげたい、と。

 何故そんな特別な気持ちになったのかは、時間をかけずともすぐに分かりました。

 そうです、私もお父さんを愛していたのです。今まで私が目を背けていたのは、父への溢れんばかりの愛情だったのです。それはいわゆる愛憎というやつで、母に対して感じていたもどかしさは、女同士の嫉妬と呼ばれるものでした。

 私は愕然としました。自分が今まで犯していた罪の重さに、色鮮やかな吐き気と無機質な喪失感が一気に胸元から全身へと駆け巡っていくかのようでした。

「さぁ、殺してくれ、春子」

 私はできませんでした。お父さんの為になりたいという感情よりも、お父さんを失いたくないという気持ちの方がどうしても勝ってしまうのでした。

 積み重ねてきた愛情の深さに、私はただただ驚愕するしかありませんでした。

「私には、できない……できないよ、お父さん」

 目からは涙があふれていました。今まで感じたことのない悲しみに、私の視界は遮られてしまいました。

「ゴメンな、春子。お父さんが馬鹿だった。冷静に考えたら、お前に殺させるなんてどうかしてるな。自分の命くらい自分で処理するよ。泣いてくれて、ありがとな」

 私の中で、何かが崩れる音がしました。確かに、しました。

「ダメ、自殺なんてしないで、お父さん。全部私に任せて。殺してあげるから。今、殺してあげるからね」

 決心を固めた私は、包丁を握りしめ、お父さんの胸元へと飛び込んでいきました。

 

 

  後悔

 

 僕は殺人という罪を甘く考えていた。「無期懲役」それが僕に課せられた惨い現実だった。少年法など当てにはならない。そう僕は強く世間に訴えたかった。

 更に僕は春子の裏切りをも知ってしまう。春子が僕を利用していただけだったと。自分の手を汚さずに保険金を得る為の計画的な殺人だったことを。

 僕は激昂した。怒りに満ちた殺意が芽生えた。しかし、僕にはもうどうすることもできなかった。だって一生、この塀の中からは出られないのだから。

「三十八番、何をしている!さっさと整列をしないか!」

 学校でも三十八番だったことを思い出し、僕は少しだけ悲しくなった。三十七番だった春子のことを、いつも後ろから眺めていたことも思い出し、僕は更に悲しくなった。嗚呼、春子は元気にしているだろうか?嗚呼、出来ることならあの頃に戻りたい。出来ることなら、あの頃に戻って、もう一度、春子と………。

 

 

  全て

 

「やめろ!」

 私の包丁がお父さんの身体を貫く寸前、誰かが部屋に押し入ってきた。

「春子さん、やめてください。僕が代わりに殺します。僕が代わりに殺しますから」

 そこには、クラスメイトの蒼くんが立っていた。

「何で、ここにいるの?」

 私の心には、疑いようもない恐怖心が芽生えていた。

「実は、僕は、春子さんのことが、ずっと気になっていて、実は、その、ずっと、盗聴をしていたんです」

 私はもう立っていることが出来なくなった。ふらふらとその場へと座り込み、殺意と共に包丁を床へと投げ出した。すると、蒼くんがそれを拾い上げながら静かに言った。

「今から、殺しますね」

 お父さんはもう何も言わない。いや、もう何も言えないのかもしれない。気付くと部屋中をアンモニア臭が埋め尽くしているのが分かった。

「殺す代わりに、僕のお願いを一つだけ、聞いてくださいね」

 そう言うと同時に、蒼くんはお父さんを突き刺した。何度も何度も突き刺した。蒼くんはとても臆病なのだろう、何度も何度も突き刺した。

 数分後、唐突に部屋に静けさが戻った。まるで何事もなかったかのように、その空間は静寂に包まれていた。

「僕のお願い、聞いてください」

 均衡を破るように、蒼くんが言葉を吐き出す。

「うん」

 私は拒絶などできるはずもなく、彼の言葉をただひたすらに待った。そして……。

「……捕まる前に、最後に、あなたの全てをください」

 私はレイプされた。放心状態だった私は、為されるがままに全てを貪られた。

 お父さん以外の人とするのは初めてだった。こういうことはちゃんと、好きな人と、きちんと恋愛をしてからがよかったな………自分自身への懺悔の気持ちと、どうしようもない絶望感が、脈打つ血流と共に全身を駆け巡った。

「私も普通の青春と呼ばれるものを過ごしてみたかった」

 思わずそう口にしてしまうほど感傷的になっていた私だったが、もうすでに、涙は枯れ果てていた。

 

 

  逃亡

 

 僕は春子を犯した後すぐに逃亡を謀った。春子にしっかりと口止めをし恐怖心を植え付けた後、僕はすぐさま逃亡を謀った。そのお陰もあって、僕には捜査の手は一切及ばず、事件は一般的な通り魔殺人事件として処理された。

 そして、春子は高校を辞めた。無事に保険金は支払われ、借金は完全に返済できたようだが、その後、春子は誰にも行き先を告げずに音信不通となった。

 僕は自殺をすることにした。春子がいない生活なんて堪えられなかった。春子は僕の全てだった。春子だけが僕に生きる希望をくれた。

「先生、僕は今から死ぬことにしました。さようなら、みなさん。さようなら、みんな」

 誰も、何も、言わなかった。誰もそれを止める者はいなかった。その時、僕はもう既に死んでいることに気が付いた。僕は何だか情けなくなり、このままこの生き地獄を歩んでいく道を選択した。

 涙さえも流れてはくれなかった。

 

 

  命

 

 私は身籠っていました。誰の子供かは定かではありません。お父さんとの子供かもしれないし、蒼くんとの子供かもしれません。しかし、どちらにせよこの子に罪はありません。なので私は、この子を産む道を選択しました。

 私は生まれ育った町を離れました。誰にも気付かれず、誰の干渉も受けずに、この子を産み育てたかったからです。

 しかし、私はとても不安でした。それは、普通の若い母親が抱くような育児に対する不安ではなく、このお腹の中にいる子供の底知れぬ人間性についてです。

 母親は、私という笑顔も作れぬ嘘吐きな女。父親は、私に度を超えた親子愛を表現し続けた男、または異常な変質者的愛情を傾け続けた人殺し。どう転んでもこの子は幸せにはなれないのではないか?私はそう思ってなりませんでした。

 きちんと愛してやらなければならない、きちんと導いてやらなければならない、そういった可笑しな重圧に、私は日々苛まれ精神を病んでいきました。

 しかし、そんな悩みの尽きない私を置き去りのまま、無情な時はあっという間に過ぎていきました。まるで、時を忘れてしまったかのようで、私は何だかとっても不思議な気持ちになりました。

「お母さんが生きていたら、こんな私になんて言ってくれたんだろう?」

 今更遅い贖罪の念に、真冬の風はあまりにも冷た過ぎました。

 

 

  罪

 

 僕は、奇形児という呼び名で生まれ、障害者という括りの中で生きてきました。母親は、僕を生んですぐにどこかへ消えてしまったということです。まだ若かった母は、とても綺麗でよく笑う人だったと聞いています。名前は春子と言ったそうです。

 父親に関しては、誰かは分からないとのことです。しかし、胎内での記憶を思い返してみると、いつも「蒼」という名前がプカプカと宙を漂っていたように感じます。なので、僕は勝手に自分の父親はこの蒼という人物だと思い込んでいます。

 胎内ではいつも白い蝶々が飛んでいて、僕はとても幸せな気持ちに包まれていました。しかし、僕はその蝶々を追いかけることに夢中になり、高い崖から転落し手足を失ってしまいました。そしてそのまま、奈落の底へ落ちるようにこの世界へとやってきたのです。

 今僕は、十七歳の高校二年生です。本体ならば青春と呼ばれるものを謳歌していてもおかしくはないのですが、特別な施設でヘルパーさんの助けを借りなければ生活することがままならない、そんな、青春とは程遠い生き地獄のような生活を送っています。

 しかし、僕は思うのです。内向的な僕はきっと、五体満足で生まれてきた所で、普遍的な笑顔溢れる明るい学校生活は送れなかったんじゃないかと。きっと、とてつもなく下らない、それこそ生き地獄のような、うだつの上がらない学生生活を送っていたのではないかと。

 どちらにせよ僕は、終始死にたいと思うような人生を送る運命だったのでしょう。友も恋人もなく、何の楽しみもないような人生を。

 一方、父と母はどうだったのでしょうか?どんな青春時代を送ったのでしょうか?今はただ、それだけが知りたいです。もしそこに、僕がこうなるに至った重大な罪が隠されているのであれば、是非とも本人たちの口から訊いてみたいものです。

 お父さん、お母さん、五月の風は、とても冷たく寂しいです。

 

 

  解放

 

 僕は少年法に守られた。判決は無罪、何のお咎めもなしだ。僕は勝ったような気がした。この世界に勝ったような気がした。早く春子に会いたい。早く春子と人生をやり直したい。そんな喜ばしい焦燥感に駆られ、僕は足早に檻の中から娑婆世界を目指した。

「春子」

 そこには何と夢にまで見た春子の姿があった。春子が僕を迎えにきてくれていた。僕にとって今日は人生最高の日だ。僕は急いで春子の元へと駆け寄る。

「春子、嬉しいよ。迎えにきてくれてありがとう」

 僕は春子を抱きしめた。強く、強く、もう離れることのないように、強く、それはそれは強く抱きしめた。

「お父さんを、返して」

 僕の胸の中で春子がそう呟いた。そして、急に取り乱した春子は、僕を突き飛ばし、大声でこう叫んだ。

「この殺人鬼!お父さんを返して!」

 春子は隠し持っていたナイフを僕の心臓へと突き刺した。その怒りに満ちた狂気は、僕の芯の部分を的確に捉えていた。

「……何でだよ?春子…………」

 倒れていく視界に、ゆらゆらと漂う白い蝶が見えたような気がした。

 

 

  救い

 

 私の前に、蒼くんが現れた。

「探したよ、春子」

 もうすぐこの子の出産日だというのに、なんというタイミングの悪さだろうか。

「それは、僕の子かい?」

 無表情のまま、蒼くんはじっと私のお腹を見つめた。

「分からないわ」

 私も無表情のまま、そう冷たく言い返す。

「産むのかい?そんな誰のモノかも分からない命を、君は、産むのかい?」

 私はハッキリと言い返す。

「産むわ。この子に罪はないもの。そしてきっと幸せにしてみせるわ。誰の力も借りず、私だけの力で立派に育て上げてみせるわ!」

 私の決意はもう揺るぐことはなかった。

「この世に生まれてきたって、何もいいことなんてないじゃないか……幸せなんてものはありはしない……そんなもの、幻想だ!」

 この男からこの子を守らなければ。私はそう直感した。

「だからさ、春子。今から一緒に死なないか?家族揃って、みんな仲良くあの世へ行かないか?」

 蒼くんの手が私の首を絞め上げる。私は必死に「あおば」とこの子に名付けるはずの名前を叫んだ。

 

 

  幸せ

 

 僕は春子を殺した。そして、自らも飛び降り自殺という形で、このどんよりと濁った命に終止符を打つことにした。

 春子は何度も何度も言っていた。「この子だけは助けて」と。だから僕は言った。「この子に何もしなかったらあの世で仲良くしてくれる?」と。

 春子はただ泣きながら、首を縦に振り「ありがとう」と言った。僕は口を横に開き「どういたしまして」と言った。

 春子が息絶えた。僕はゆっくりと携帯を取り出し、歌いながら救急車を呼んだ。空も一緒になって歌った。鳥も一緒になって歌った。僕は楽しくなって全裸になって学校まで一直線に走り出した。何時間も何時間も走り続けた。いつになっても辿り着かなかったが、いつの間にか辿り着いていた。

 そして屋上まで一気に駆け上り、全てがぶっ飛ぶほどの大声でこう叫んだ。

「僕は今から死ぬことにしました!さようなら!みなさん!さようなら!みんな!」

 誰も何も言わなかった。悲しくなって、僕は、飛んだ。窓ガラスに映る僕は、まるで、自由に空を舞う白い蝶のようだった。

 

 

  宿命

 

 新しい女性のヘルパーが来た。年齢は僕と同じ十七歳という若さで、名前は「あおば」という。気さくでよく笑う彼女に、僕は次第に心を奪われていった。親を知らないという境遇もよく似ており、彼女は僕にとって想い人であり同志のような存在になっていった。

「今日、デートに行きませんか?」

 彼女が僕を誘った。何の前触れもなく、唐突に誘った。

「喜んで」

 僕の心は躍っていた。急に舞い込んだ幸せに、僕の心は躍っていた。

 すぐさま僕は、デートの準備を整えて、あおばとの待ち合わせ場所へと向かった。あおばは清楚な白いワンピースを着て、笑顔で僕を迎えてくれた。僕たちは色んな所に行って、色んなものを食べた。色んな話をして、色んな表情を見せ合った。

 高校二年生にもなって、女の子とデートに行ったことがなかった僕にとっては、全てが新鮮で、まるで夢の世界に迷い込んでしまったかのようだった。

「私、あなたのことが好きです。よかったら、お付き合いしてください」

 胸が熱くなった。ただ純粋に嬉しかった。僕は満面の笑みを浮かべ、シクシクと声を上げ泣いた。しかし、涙は出てこなかった。笑顔さえも無表情だった。しかも、相手の目に映る僕はのっぺらぼうで、その相手の顔すらとても不鮮明で、それは瞬く間に跡形もなく消え去ってしまった。

 

 いつの間にか部屋は真っ暗で、そこには一人ぼっちの僕がいるだけだった。そして、ベッドから一歩も動いていないという覆りようのない現実が、まるで、濁流のように僕の脆く壊れやすい歪んだ心を襲い始めるのであった。

 

 

  嘘と嘘、即ち真

 

 結局、誰も幸せにはなれなかった。あの世では幸せに暮らせるといいけど、きっと、それは無理だろうなぁ。

 どこかで聞いたことがあるんだ。地獄は、独房のように一人一人別の場所にあって、煮も焼かれもせずに、何もないままに時が流れていくんだと。

 だから僕たちはもう二度と出会うことはない。たとえ君が約束を果たそうとしてくれても、僕たちはもう、二度と、出会うことはできないんだ。

 それに、思うんだ。僕たちはもう二度と出会わない方がいいと。だからせめて、最後にこう思うことにする。

「僕たちはまだ出会ってもいないし喋ったこともない赤の他人」

 そもそも現実の定義とは一体何なのだろうか?そもそも僕とは誰であなたとは何なのだろうか?春子とは君で、蒼とは本当に僕なのだろうか?僕は本当に人殺しなのだろうか?僕は本当に人間なのだろうか?

「すっ」

 と心の消えゆく音がした。それでも僕はまだ、春子という恋人を思い続けていた。

 

 

  あの日の風

 

「蒼くん、もう一度言って」

 春子が俺の顔を覗き込む。

「好きだよ。春子」

 俺は春子の目をしっかりと見つめ返し、優しくそう答える。

「嬉しい。私、ずっと蒼くんのことが好きだったから、今、とっても幸せ」

 俺は少し申し訳なくなった。いくら仲間内での罰ゲームだからといって、こんなにも純粋そうな女の子を弄ぶなんてどうかしている。

「もう、帰ろうか」

 まだデートをして一時間も経っていなかったが、俺は自責の念からそう彼女に提案した。いや、本心ではこんな醜い女といつまでも一緒に歩いてなどいられるか、という腐ったものだった。

「イヤだ。私、今日は絶対に帰らない」

 面倒くさい女だ。学校に一人も友達がいないお前が、学校一の人気者である俺と少しでもデートが出来ただけありがたいと思えよ。

「また今度、学校が休みの時にちゃんとデートしようよ」

「こんな醜い女といつまでも一緒に歩いていられないって?」

「えっ?」

「分かってる。私だって分かってる。でもね、だからこそ今日は帰りたくないの。だって、このまま帰ってしまったら、もう二度と蒼くんと触れ合うことが出来なくなるから」

 この女は全て分かっている。

「キスして」

「は?」

「そうしたら帰ってあげる。そして、今後一切何もしないし何も言わない」

 春子は今にも泣き出しそうだった。俺は仕方なく、その要求を呑むことにした。

「分かった。じゃあ、おいで」

 俺たちはキスをした。悲しい悲しいキスをした。しかし、何故だか俺は嬉しくなって、ボロボロと泣いてしまった。

「蒼くん、何で泣いてるの?」

 楽しかった。今日一日、この春子と一緒にいた時間が、たった一時間だけだったけど、本当はとてつもなく楽しかったのだ。

「俺、お前のことが好きになっちゃったみたいだ」

 ただ、俺のプライドが許さなかっただけなんだ。学校一の人気者なのに、春子みたいな暗くて友達のいない女と付き合うなんて、それこそどうかしてると思っていたんだ。

「嘘……だよね?それも、罰ゲームなんだよね?」

「春子、もう一回言ってもいい?」

「えっ?」

「好きだよ。春子」

 

 

  放課後

 

「蒼くん、聞いてるの?」

「えっ?」

「今日の放課後の買い物は大丈夫なのよね?お金はちゃんと持ってきたの?」

「あ、う、うん。親のサイフから抜いてきたから大丈夫だよ」

「そっか。ならいいんだけど。じゃあ、また放課後ね」

 そう言って春子は、天真爛漫な後ろ姿を振りまきながら颯爽とどこかへ行ってしまった。昔はあの後ろ姿が好きで好きで堪らなかったのに、今では殺意さえ覚える始末だ。

「もうイヤだ……」

 不機嫌な溜め息と共に、僕はそう小さく心の中で呟いた。

 春子との約束があると、時間が経つのがとても早い。ついさっき最初のチャイムが鳴ったと思ったら、もう最後のチャイムが鳴っている。まるで時を忘れてしまったかのようで、僕はいつも不安定な気持ちになる。

 そして反対に、春子との買い物はとても長く感じるから、いつもとても不思議な気持ちに陥ってしまうんだ。

「お待たせ、それじゃあ行こっか」

 最初はとても幸せだった。ずっと想いを寄せていた春子と一緒にデートが出来るなんて、まるで夢のようだった。でも今ではもう全くそのような気持ちは感じない。春子を知る度に、僕はどんどん春子を嫌いになっていった。春子というその凶悪性に触れる度に、僕の心はどんどん蝕まれていった。

「早く早く、今日は欲しいワンピースがあるんだ」

 春子は僕のお金を使い己の物欲を満たしていった。その額は次第にエスカレートしていき、もう僕の手には負えない状況にまで陥っていた。限界のピークにまで達していた僕は、今日そのことを春子に正直に言おうと決心していた。

「春子、ちょっと話があるんだ」

 一通りの買い物を終えた後、僕はとある街角のベンチで全てを打ち明けた。すると、春子の口から驚くべき言葉が返ってきた。

「そっか。じゃあ、お父さんかお母さんを殺して保険金を巻き上げましょう。もちろん、あなたのね」

 悪魔だと思った。この女は、正真正銘の悪魔だと。しかし、僕の染み付いて離れない奴隷性分もおぞましく、その提案を全く以て断る気になどなれなかった。

「大丈夫よ、アナタなら出来るわ。アナタは私が見込んだ男だもの。好きよ、蒼くん」

 何かが崩れる音がした。

 

 

  あの場所

 

「私、蒼くんと一緒なら本当にどこでもいいんだ。だから、今日は蒼くんの好きな場所に連れてって」

 ずっと、現実の定義とは何かを考え妄想に耽っていた僕は、その春子の声でふと我に返った。

「それじゃあ、お気に入りの丘があるからそこに行かない?」

 春子が小さく首を縦に振った。その健気な仕草に、僕の心の中に何か小さな明かりが灯ったような気がした。

 僕たちは何も言わずに歩いた。お互いの燃え上がっていく気持ちを隠すように、ゆっくりと、そしてしっかりと手を繋ぎながら歩いた。

「ほら、あのベンチが見える?あそこがその丘だよ」

 数百メートル先にわずかに見えてきた小さなベンチを指差しながら、僕はそう春子に告げた。

「素敵な所だね」

 春子はそう言い、優しくその表情を綻ばせた。ここに誰かを連れてくるのは初めてだった。僕はいつも一人ぼっちであのベンチに座り、孤独を憂い泣いていた。

「嬉しい」

 春子が僕との距離を詰めながらそう言った。僕の方こそとっても嬉しいよ。お礼を言わなくちゃいけないのは僕の方だ。こんなにも優しい時間を与えてくれてありがとう。愛を教えてくれてありがとう。僕の心は春子への感謝の気持ちで溢れ返っていた。

「少し登るけど、大丈夫?」

「うん、大丈夫だよ。ありがとう」

 僕たちは、よりしっかりと手を繋ぎ、少しだけ急な坂道を登り始めた。

「蒼くんは優しいね。蒼くんだけが私に優しくしてくれる。蒼くんだけが私を必要としてくれる」

 春子の弱々しい声が僕の鼓膜を揺さぶった。

「どうしたの?そんなことないでしょ?春子は人気者で友達もたくさんいるんだから」

 急に冷たい風が吹き抜けた。

「上辺だけよ。あんなの全部、友情ごっこ。私は自分を偽ってるの。学校での私は偽りの仮面を被った道化師なの」

 春子は泣いていた。その頬には音もなく涙が流れていた。僕は言葉を探した。しかし、それに対する的確な言葉を、今の僕には探し当てることが出来なかった。

「私ね、蒼くんの前では本当の自分でいられるの。蒼くんと一緒にいる時だけ、笑えるんだ」

 春子の涙が勢いを増していく。

「だからね、今日はとっても迷ったんだ。私が蒼くんを誘うことによって、今までの関係が壊れちゃうんじゃないかって………それにね、もし蒼くんが私のことを良く思ってなかったらどうしようっていう心配もあったんだ。八方美人な振る舞いをする私のことを、蒼くんが、良く思ってなかったらどうしようって……」

 僕は春子を抱きしめた。優しく強く抱きしめた。春子は僕の胸で泣いた。声を隠してただ泣いた。

「春子、好きだよ」

 春子は何も言わなかった。気付くと僕も泣いていた。いつもは苦い涙の味も、今日は優しい味がした。

 

 僕たちはしばらくの間、互いの壊れそうな心を寄せ合いながら抱き合っていた。どれくらいの時間そうしていたかは分からないが、気付くと当たりは薄暗くなり始めていた。

「春子、大丈夫?そろそろあのベンチまで行こうか。あそこから見る夕日はとっても綺麗なんだ」

 春子はこくりと頷き、僕の右手を軽く握った。ただそこにあるのは優しさだけだった。僕たちは何も言わず、一心にそのベンチまでの道のりを歩いた。

「着いたよ」

 僕の特等席。僕だけの特等席。だけど今日からは二人の特等席。二人だけの特等席。

「わぁ、綺麗」

 ベンチに座りながら僕たちは夕日を眺めた。手を繋ぎ二人で寄り添いながら、僕たちはただただ幸せな時間を共有した。

 今日、春子と過ごした時間はあっという間だったけど、この夕日が沈むまでの時間はとてもとても長く感じた。とても、とても、濃い時間を、この夕日は、僕たちに提供してくれた。

「綺麗だね」

 僕の中に初めて心というものが形成されたような気がした。

 春子が僕を見つめた。

 二人は優しいキスをした。

 

 

  日常

 

「春子さん、おはよう」

 僕は今日もまた心の中でそう唱える。もう何度この言葉を吞み込んだだろうか?毎朝、春子が僕の前の席に座る度に、その九文字は消化不良で僕の中を彷徨うのであった。

「春子おはよう!昨日の青葉くんとのデートどうだった?」

 春子の親友である白井が、大声で下品な質問を何の恥ずかしげもなく春子に投げかける。

「えっ、う、うん、何かねぇ……とっても楽しかったよ。ふふふふふ」

 春子が照れくさそうにそう答える。

「あ~あ~いいなぁ~ラブラブで。羨ましい」

 そう言って白井は、そんな春子のことを天を仰ぎながらとても羨ましがった。

 しかし、僕は全く羨ましくなどなかった。僕だって何度も春子とデートに行っている。色んなことをしたし、二人だけの秘密の場所だってある。人には言えない秘密だって二人にはたくさんあるんだ。

「ちょっと山村、何見てんのよ?気持ち悪い。あっ、ひょっとしてアンタ、春子のことが好きなんじゃないの?生意気~」

 急に白井が話しかけてきて、僕は酷く動揺した。

「ゴメン」

 僕は何も言い返せなかった。ただただそう謝ることしか出来なかった。

「否定しないってことはホントにそんなんだぁ~へぇ~春子~どうすんのー?」

 僕はその場から逃げ出したくなった。しかし、今の僕には逃げ出す勇気も気力もなかった。

「えっ、普通に無理。気持ち悪い」

 僕は愕然とした。現実はこんなにも惨く凄惨なものなのか。こんな気持ちは久しぶりだ。ずっと忘れていた。いや、意識的にそうならないように目を背けていたんだ。自分の殻に籠り、全て都合の良いように解釈して、妄想して、現実と向き合うことを放棄していたんだ。

「てか山村っていうんだ。初めて知った」

「えー春子ヒドーい。それはさすがにヒドいよねぇ~きゃはははは!」

 僕は泣いてしまった。溢れる涙を止めることが出来なかった。いつもより悲しく苦々しい涙が、気付くと音もなく頬を伝い始めていた。

「えっ、何?泣いてんの?嘘でしょ?あーあ、春子泣かせちゃった~」

「可愛い。純粋なんだね。ゴメンね、山村くん。私が馬鹿だった。本当は私も山村くんのこと好きなのに、ついつい照れ隠しで変なこと言っちゃったの。ゴメンね、許して」

 そんな妄想を即座に考え、異世界へと逃げ込んだ僕だったが、「マジで気持ち悪い」という春子の一言により、現実という地獄に一瞬にして引きずり出されてしまった。

 でも僕はそんな素直な春子のことが好きなんだ。しっかりと人にものが言える自分をしっかりと持ったそんな春子のことが好きなんだ。

 僕は今それを君にしっかりと伝えたい。想いの丈をありのままに伝えたい。振られるのならしっかりと振られたい。全身全霊をぶつけて豪快に砕けたい。

「あの!」

 僕は青春の全てをここでブチマケルことにした。これは与えられたチャンスなんだ。荒々しいパスだったけど、これは現実をしっかり生きろという合図なんだ。もう僕は逃げない。もう僕は逃げないぞ!

「春子さん、それでも僕は、あなたが好きです!」

 春子は何も言わなかった。僕には春子の気持ちが見えなかった。

 温かな五月の風が吹いて、僕の中で、何かが崩れる音がした。と同時に、何かが生まれる音がした。確かに生まれる音がした。

 僕の中に、何かが芽生え、希望にあふれる音がした。

 

 

「今日も一言一句間違えずに唱え上げたな」

「あぁ、この名もなき春子と蒼の物語を知らねぇ奴はもうここにはいねぇよ」

「これは実際にあった話なのか?」

「さぁ、こいつが正気を取り戻したら聞いてみな」

「ハハ、無理だろ。それよりこいつの名前、なんだっけ?」

「さぁ、知らねぇ。興味もねぇ。山村とでも呼んでおけよ」

「そりゃいいや。オォーーーーイ!!!山村ぁーーーー!!!オォーーーーイ!!!オォーーーーイ!!!」

 

 煌びやかに見えるハイテクの内側は酷く薄汚れている。どのような複眼を持つかだ。飛び交う電波による波で僕らはゆれゆれブレブレ酔い狂い。

「放射線を打ち消す何か未知のエネルギーを与えてください!原子爆弾を無効化する何かを!与えてください……」

 

 もう苦しくて苦しくて、堪らないのですから……。