現在、僕は進化経済学という学問を学んでいる。

この進化経済学というのは、・・・大変乱暴に言えば・・・新古典派理論を批判することによって自らの学問体系のアイデンティティを保っている学群である(こんなこと言うと、進化経済学がまるで器が小さいように見えるが、本当はちゃんとした理論がある)。


新古典派理論と言えば、その核となるのは価格理論、さらにその理論的支柱になっているのは、ワルラスが考えた一般均衡理論である。そして、一般均衡理論はその名に表れている通り、「均衡」を重視するのだが、進化経済学は「そんなのちゃんちゃらおかしい」と批判をするわけである。


「ワルラスが考えている市場像は、パリやロンドンなどの証券取引所である。彼の言葉を用いるならば、この市場(証券市場)は「よく組織された市場」である。そこでは、中央に「競り人」がいて、取引開始と共に大声で価格を設定する。仮に需要が供給よりも多かったら価格を上げ、供給の方が多かったらその逆をすれば良い。このように「模索過程」を通して、財の需要と供給が一致する点において、価格と数量が求まる。」

 

「しかし、である。


第一に証券市場を他の市場(野菜市場とか衣類市場とか)においても適用するのは理論的に飛躍がある。特定の事例から他の事例を一般化するのは無理があると言えるだろう。

そして第二に、証券市場であっても均衡によって価格と数量が求まるわけではない。証券市場においても、時間優先、すなわち、売り手と買い手の双方が合意した時点で価格と数量が求まるわけだから、「均衡」という概念はおかしい。」


進化経済学は、大体こんな感じで一般均衡理論ごと新古典派を攻撃する。

 

ここら辺、複雑系経済学の姿勢と非常に相性が良い。本を見てみよう。



経済というのは、全知全能の神のような合理的経済主体、すなわち「経済人」という個の総体で成り立っているのではない。我々が生活している社会環境においては、すべてのものが経済活動に関わる変数となり得る。したがって、経済は個別主体の相互作用の全体として考える必要がある。複雑系経済学は、この相互作用の在り方とそれらが生み出す総過程に中心的な考察目標を置く(p.228)。では、その相互作用とは例えばどのようなものがあるだろう。代表的なのは、取引である。


取引(transaction)は、基本的に相対取引として行われる。このことは、先に見た証券市場でも同様である。財・サービスは、競り人によって価格が決まるのではなく、売り手と買い手が直接取引を行った結果、決められる。売り手が価格を決めるものの、買う自由を持っているのは買い手である。したがって、売買には価格に関する合意があり、このことは価格決定の基本は相対取引を表わすことに他ならない。

曰く、「現実の市場では、価格は財・サービスの種類毎に独立に決められています(p.299)」。

 

うんうん、うちの師匠もそんなこと言っている、と読み進めると、どうも気になるところがでてきた。pp.312~314からの「市場価格の成立」のところだ。


人間には、理性とか合理性の面で、限界がある。とは言え、そうした限界がある中でも「マル寄りのサンカク」を目指すのが人間である。したがって、相対取引では、過去の身近な取引を参照にしながら、価格や取引量を決めていく。


こうして、はじめは星雲状に散らばっていた取引価格が、あるひとつの値のまわりに収束していく。その結果、一物一価に近い状態が成立する(p.313)。



「近い」という言葉があるものの、塩沢氏は一物一価を基本的に認めている。あれ?と。


塩沢先生、均衡という概念は『近代経済学の反省』から徹底的に批判しているのに、一物一価を認めたら、一般均衡理論に実質後退してしまうじゃないか。『進化経済学基礎』(日本経済評論社)の価格理論によれば、「一物一価」ではなく「一物多価」を認めている。てっきり話の流れ的にも、この「一物多価」が出てくると思ったのに、なぜ議論を均衡の方に持って行ってしまったのだろう。

 

・・・文章が非常に拙いが、とりあえず本を読んで思ったことは以上だ。たぶん最後まで読む人はおるまい。これはあくまで卒論の物置き場だ。