温泉つき熱海研修所の女王・大島節子の場合

 

 六十三年五月、創価学会は大々的な人事刷新を行ない、いっぺんに副会長が二十五人も新たに誕生した。この役員人事にちょっとした異変が起こった。

 従来、副会長は、会社でいえば取締役に当たる「学会総務」の中から、功労や序列によって任命されてきた。ところが今回、一般の幹部から総務に昇格したその日に副会長になった男がいた。大島光明新副会長である。事情通の間では、「ハハア、また池田の病気が出たな」と話題になった。大島に今回、副会長になるほどのキャリアも力量もない。その見方は衆目の一致するところであった。それでは、なぜ、学会関係者も驚く「前代未聞の二階級特進」となったのか。大島夫人は、学会内では「熱海研修所の女王」といわれた、旧姓・高橋節子さんである。池田大作のお気に入りとして、「月刊ペン」裁判などでも名前の出た女性だ。

      

 池田好みの容姿で、池田に見染められて、両親ぐるみ熱海研修所(後に東海研修道場と改称)の管理人として召しかかえられた。そうしておいて、熱海研修所の岩風呂つきの豪華な専用施設に、池田は入りびたりになった。

 この「女王」はアッケラカンとしたところがあって、同僚だった女子部の幹部に、池田との親しい関係を話したり、池田から贈られた高価な衣類や装身具をみせびらかしたりしたので、噂が次第に広まっていってしまったのである。やがて「創価学会会長の浮気」スクープを狙った週刊誌記者が熱海研修所のそばに張り込んだり、カメラマンが近くのクリーニング店の屋上に望遠カメラをすえつけるようになった。

 

 そこで池田は、大蔵商事時代からの側近で、ずっと私設秘書的な仕事をやらせていた中西治雄に、対策を命じた。中西は、聖教新聞記者だった大島光明と節子さんを結婚させて二人を新任地の栃木県へ引っ越しさせることにした。
 ところが池田は、人妻の身となった節子さんに相変わらず御執心で、ほとぼりがさめると、彼女を熱海に呼び戻したのである。これには中に入った中西治雄も周囲にボヤいた。「せっかくうまいこと処理したのに、また呼び戻して同じことをされたんでは、なんのために苦労したのかわからない。大島も可哀想ですよ。」

 

 彼女は、熱海の広大な「温泉付き池田別荘」ともいえる研修所で、普段は、職員を従えてクジャクのように振る舞っていた。池田がきた時は、もっぱら彼女が身の回りを世話するが、それだけが仕事で、あとは何もすることがなかったからである。

 もっとも、たまに池田から、箱根の専用施設に呼ばれることがあった。夜遅く、運転手をつとめる職員を呼び出して、車中で浮き浮きとはしゃいでいた。これには職員も苦がり切っていたという。(中略)

 昭和五十六年から始まった「月刊ペン」差し戻し裁判でも、彼女のことは法廷に持ち出され、また週刊誌等でも取り上げられた。それから六年たち、隈部大蔵氏も死亡して裁判は立ち消えとなり、ほとぼりもさめたと思ったのだろう。池田は六十三年初めから「勝った、勝った」と騒ぎだし、大島新副会長の大抜擢など、当時、苦しい思いをさせた者への論功行賞をやった。

 この男の頭には、組織を守ることより、自分の地位を固め、権力を思うままにふるえることの方が大きかった。だから池田は、私の自尊心をへし折ろうとし、プライドを捨てた部下が何でもいうことを聞くかどうか、踏み絵を繰り返すのである。

 女房でも差し出すか、それこそ逆立ちでも、三遍回ってワンと吠える犬の真似でもやって見せるような部下しか、重用しない。要するに自分の下につく者は、人間として最低のプライドまで捨てさせ、反抗の牙を完全に抜く。そうしないと安心できない。それが日本最大の宗教法人、創価学会名誉会長・池田大作の偽りのない素顔である。

『池田大作の素顔』221頁

 

 

 

 

 

以上で紹介を終わります。

私が創価大学で就職活動をしていた頃、企業の人事部の人が語っていた言葉を思い出します。

『トップと人事がいい加減な会社はどこに行ってもダメです』と述べてました。

藤原行正氏の名著『池田大作の素顔』を読むと「トップ」の池田大作は女性にだらしなく、私利私欲のために宗教を利用し嘘や捏造で創価学会員を騙し続け、学会員の財務で池田大作専用の豪華施設を作り贅沢な暮らしをしていたことが分かります。

また創価学会の「人事」も池田大作の都合で勝手気ままな人事をしていたことがよく分かります。

 

ここに紹介した内容は創価学会と池田大作は名誉毀損で訴えていません。

それは事実であり、真実だからです。

このような破廉恥な人間を人生の師匠として先生と呼んでいるのが創価学会という団体です。