「過去に目をつむる者は、現在にも盲目であり、未来も同じ過ちを犯すだろう」

これは当時ドイツの大統領だったヴァイツゼッカーの名言です。

 

言論出版妨害事件を振り返らないことは過去に目を閉ざすことであり、現在にも盲目になる。

そこで言論出版妨害事件について『今はじめて語る”あの頃”の真実史』という本の編者の註に分かりやすい解説があったので、註の全文を引用して紹介したいと思います。

 

ーーーーーーー以下引用

 

 『池田大作は、会長就任1年後の昭和36年5月19日、学会内に「言論部」なる組織を作った。その目的は、次なる池田発言によって窺(うがが)い知ることができよう。

 

 「私どもの執念深い、そしてまた忍耐強い、正しい、大衆の代表として、大衆の世論としての、情熱ある言論戦を展開して、悪い彼らが、今までは思い上がり、独断的であり、利己主義である彼らを恐れさせて身震いさせて本当に正しい言論戦は恐い、どうしようもない、というところまで、追って追って追いまくっていこうではありませんか。」 

(昭和38年7月28日・言論部第1回全国大会)

 

 こうして誕生した言論部は、具体的には、学会批判を行なったマスコミや執筆者などに対し、組織的に、抗議の投書や電話の集中砲火を浴びせるなどした。その結果、マスコミ内に「鶴(つる)タブー」なるものが生まれ、マスコミによる学会批判は皆無に等しい状況となった。

 

 この「タブー」を突き破り、学会批判本を出版しようとした執筆者・出版社に対して、創価学会は、公明党幹部ばかりか、文部大臣や自民党幹事長(いずれも当時)、はては右翼の大物まで動員して、圧力をかけ、あるいは出版差し止め訴訟を起こすなど、徹底した妨害工作を行なった。

 

 よく知られているところでは、植村左内(うえむらさない)氏の『これが創価学会だ』、 隈部(くまべ)大蔵氏の『創価学会・公明党の破壊』『創価学会・公明党の解明』、 内藤國夫氏の『公明党の素顔』、藤原弘達(こうたつ)氏の『創価学会を斬る』などに対する妨害がある。

 

 まず、植村氏の『これが創価学会だ』に対して創価学会は、「図書発行禁止仮処分命令申請」などの法廷闘争の他、有力な販売ルートであった新宗教連盟(当時の理事長は立正佼成会の庭野日敬)に対しても法廷闘争を仕掛けて圧力をかけた。その結果、植村氏の著書は、すでに販売したものまで回収されて、日本大学の校庭に積み上げられ、創価学会・公明党の監視のもと、十万五千三十八冊が焼却処分された。

 

 隈部(くまべ)氏の『創価学会・公明党の破壊』に対しては、出版社が教育書籍を扱う会社だったため、時の文部大臣から圧力がかけられた。それでも動じなかった隈部氏と出版社に、今度は、日大の会頭で、宗教界に隠然たる勢力を持っていた古田重二良(じゅうじろう)氏が、ゲラの検閲を強要してきた。それでも何とか印刷までにはこぎつけたものの、結局、出版社は圧力に抗しきることができず、同書は書店に並ぶことのないまま「初版即絶版」にされてしまった。

 隈部氏はその後、北条浩(後の創価学会第4代会長)から、「創価学会は『象』それも巨象だ。これにくらべてお前は一匹の『蟻』だ。創価学会を批判する輩に対しては、たとえ一匹の蟻といえども象は全力でもって踏みつぶす」

「学会の青年部は純真で、情熱的で、行動力に富んでいる。したがって創価学会を批判するような不心得者に対しては、最高幹部の命令とあれば、命令一下、どんなことでも実行する信念と行動力を持っていることを、よく覚えておけ」と恫喝される。

 それでも屈することなく、批判書出版に情熱を傾けた隈部氏は、細心の注意と努力で、ついに『創価学会・公明党の解明』を出版・販売するに至ったが、大手取次店には取次を拒否され、大手新聞社からは広告掲載に際し厳しい制約を受けた。

 

また、内藤氏の『公明党の素顔』に対しては、まず、内藤氏が当時勤めていた大手新聞社が、出版に対して非協力的な態度に終始した。

 それをどうやら乗り越え、ゲラ刷りが書籍取次店に回った時点から、学会の妨害活動が始まった。最初は意欲的だった取次店も、きびすを返したように「取り扱いはできない」と言ってきた。出版社には、北条浩を筆頭に、公明党議員や副会長が懐柔のため押し掛けた。もちろん内藤氏本人にも、山崎尚美・公明党委員長だった竹入義勝氏(現在は法華講員)などが接触を図り、”懇願”から”威圧”まで、内藤氏に出版を断念させようと圧力をかけた。それでも内藤氏が動じずにいると、今度は右翼の超大物、日本船舶振興会会長の笹川良一氏が乗り出してきて、内藤氏に対し、「本をすべて買い取る」と申し入れてきたが、内藤氏はこれを拒否した。

 

 次に、藤原氏の『創価学会を斬る』に対しては、同書の出版を予告した電車の車内吊り広告が出されるや、公明党都議の藤原行正氏と秋谷栄之助が藤原弘達氏宅を重ねて訪問。出版の取り止めなどを”懇願”してきたが、当然のことながら、藤原氏はこの申し入れを断った。すると今度は、時の自民党幹事長・田中角栄氏が乗り出してきて、藤原氏を料亭に呼び出し、「初版の一部以外は全て公明党が買い取る」旨を打診してきたが、この交渉にも藤原氏は応じなかった。一方で、藤原氏のものには、大量の抗議書や強迫めいた電話が殺到した。送り付けられてきた抗議書の類は、みかん箱に十個ほどの量にも及んだ。こうした出版妨害に業を煮やした藤原弘達氏は、昭和44年11月、それまで言論弾圧を受けていた内藤國夫氏などのジャーナリスト達と共同して、シンポジウムを開くなどして本格的に学会の糾弾を開始。また、学会が自民党大物議員まで引っ張り出して出版妨害を行なってきたことを、月刊誌等で公表。テレビなどのメディアも、この問題を取り上げた。こうして、創価学会により恒常的に行なわれていた言論出版妨害の実態が表面化したことで、世論が沸騰。これを抑えようとした公明党は、事件を「事実無根」と全面否定。この公明党の対応に激怒した藤原氏は、当初は明していなかった田中角栄氏の名前を公表。これを受けて共産党・民社党・社会党が、国会審議の場で創価学会の言論出版妨害事件を追及。ついには池田大作の国会喚問の要求が飛び出すなど、国政をも巻き込む大問題に発展した。

 

 創価学会は、陰で公明党の”身売り話”を民社党・社会党などに持ちかけて攻撃の矛先を鈍らせ、また、時の佐藤内閣が学会に協力し、野党側の質問をのらりくらりとかわして時間稼ぎをしたことにより、池田の国会喚問は実現されずに終わった。しかし、高潮した世論の方は、まったく収まる気配はなかった。そのため、池田大作が、昭和45年5月3日の第33回本部総会で謝罪講演を行ない、その中で世間に陳謝すると共に「政教分離」を宣言したことにより、騒ぎは何とか収まった』

 

 

 ーーーーーーー引用ここまで

 

 

創価学会は平和・教育・人権といった標語を聖教新聞でよく掲げてるのですから

言論出版妨害事件を見ただけでもこれが大嘘であるのは言うまでもありません。

 

対談『今はじめて語る”あの頃”の真実史』は山崎正友氏や原島嵩氏が真相を語っています。

創価学会員、元創価学会員、正信会員、顕正会員、法華講員の方でも誤解をされている方も多いと思います。聞かないと分からないことがあります。まずは認識です。

何が真実だったのかを知りたい方は一読をおすすめします。

 

 

ヴァイツゼッカー元大統領の名言を読むと

ドイツ史の大家であった林健太郎氏の言葉を思い出します。

 

「過去の観察は現在の診断と未来への志向に活かさなけば意味がない」

 

 

最後に関連する余談を・・・

 

ウィキペディア(Wikipedia)の言論出版妨害事件では次のような記述があります。

 

「日本の評論家である加藤周一は、1970年8月号の「潮」に「丁丑公論(ていちゅうこうろん)私記」という論文を発表し、公明党のいわゆる言論抑圧事件について、マスコミに対する反対意見を述べた。」

 

月刊「潮」は女性向けの雑誌である月刊pumpkin(パンプキン)と同様に創価学会系の出版物です。

当時の創価学会は同時中継というのがあり、池田大作がリアルタイムでスピーチしていました。

1992年頃だったと記憶していますが、学会の幹部会の同時中継に知の巨人と言われた加藤周一が参加しているのを私は何度か見ました。

加藤周一が創価学会から賞を授与されているのをライブで見たこともあります。

これだけの出版の自由を妨害しているのにもかかわらず、加藤周一がなぜ創価学会を擁護するような発言をするのかがご理解いただけたと思います。

 

また、新・人間革命という本には言論出版妨害事件について3人の青年が怒りから勝手にやったと嘘の歴史が書かれてあります。真実は19人が組織的に結成されて書店に圧力をかけるように創価学会から命じられてやったのです。

真実を知るためには書店に圧力をかけた当事者の話に耳を傾けることです。

『サヨナラ私の池田大作 女たちの決別』(144頁)で岩崎文彦氏が「"言論出版妨害事件"の当事者として」と題してコラムで当事者として真実を語っています。

また『サヨナラ私の池田大作パートⅡ』(115頁)でも岩崎文彦氏が「風化させないてはいけない言論出版妨害事件」と題して当時してきたことを詳しく述べています。