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野の花

ふと立ち止まった方を、和ませるような、そんな野の花になれたら、と願っております。


過日、二年ぶりくらいで、上野公園さんの謦咳に接し、お話を伺う機会を得ました。
お元気そうで、やわらかな物腰のなか、眼光鋭いところはかわりなくていらっしゃるようでした。魂が交代したことにつきましては、よくわかりませんでしたが。
お話しているなかに、米教を理解する難しさ、伝える難しさが出てまいりました。
軽く触れただけで、そう掘り下げてお話はしませんでしたが。なんともうしますか、しようがないわけです。
上野公園さんはもちろんご存知なわけですし、わたくしもそれなりに理解しているつもりなので、改めて語り合うことでもありませんから。


米教を理解してゆくには、奇魂を働かせてゆかなければなりません。
それは考えるということですが、かといって、頭で考えるということではないわけです。
奇魂を働かせるとは、胸で考えるということになります。
かといって、直感や感覚という意味ではありません。
上野公園さんは、体験経験を通して考えることとおっしゃいましたが、なかなかそれでも伝わり難いだろうなと、わたくしはおもっております。
それは上野公園さん自身、ブログなどで書いてらっしゃることですし、わたくしも書いてきましたし。
他にどういう説明ができるのだろうか、と思案していました。
と、そうなんです。
考えるではなく、思案するが適切だと、気づかされました。

奇魂を働かせるとは、頭で考えるではなく胸で思案するということです。

まずは米教とはなにか?を掴むことです。
米教とは、人が神となっても恥ずかしくない状態になるための教えです。
神が頭で、算盤勘定ばかりするものでしょうか?
胸で、どうすれば他の役に立てるか思案するものですね。
頭とは知識を詰め込む場所です。
でも、知識では、人は良くなれません。
知識を胸に落とし、自分の身にする。それが智慧になります。
知識は大切ですが、それだけでは困るわけです。
色々本を読んだり話を聴いたりすることは大切ですが、それを鵜呑みにするのではなく、咀嚼し、身につけていかなくては意味がありません。
素直と鵜呑みは違います。
なんでも良い良い、ではいけません。
良し悪しを判断することも、大切です。
悪いことは悪いわけです。
けれども悪いと単純に切り捨てるのではなく、なぜそうなったのかを思案することは大切です。
そこから、許しやおもいやりが生まれてきます。
初めからなんでも良い良いでは、単なる鵜呑みでなにも生まれません。
しっかりと思案することです。

なんとかの存在が話かけてきた、神だと名乗った、神だとおもうと、鵜呑みにしないことです。
そんなものに誑かされ、唆されして踊らされ、どうするのですか?
あなたはみろく世に渡りたくないのですか?
渡りたくないのであれば、いつまでもそうやっておかしな存在と戯れていたら良いわけです。
いや、わたしはみろく世へと渡りたいというのであれば、すっぱりそこから意識を切り離すべきです。
惑わされずに、しっかりと胸で思案することです。

なぜドカンと立替が起こらないのか、思案してください。
ドカンともやろうとおもえば、できたはずです。
なぜ、そうなさらないのか?


わかりませんか?
神の御心が。


一人でも多くの、いいえ、全ての人類を救い出したいというおもいをおもちだからです。
なぜ、 あなた方は、米教をご存知でありながら、その神の御心に気づかれないのでしょうか。
その御心を踏みにじるような真似をなさるのか。
わたくしには理解できません。
それでもなお、見捨てずに手を伸ばしてくださる主に、主の御心に、気づいていただきたいと、わたくしは強く願っています。

それが神の御心ですから。

そのために、変な存在に踊らされない。(霊感や直感に走らない。)
頭で考えるのではなく、胸で思案する。
鵜呑みにしないこと。鵜呑みと、素直は違います。
素直とは、丸投げにすることでもありません。
人事を尽くし天命を待つ姿勢が、素直ということです。

素直とは、主の糸(意図)に直くあるということ。
神の御心のままに、わたくしは、わたくしなりに伝えてゆくだけです。

まだこの三次元は続いています。
存続させていただいております。
その温情にできるだけ早く気がついていただきたい。それも永遠には続かないでしょうし、なにより、わたくしはあまりに悲しい。
その優しさ、慈しみに気づけないその魂の貧困が。
同じ人として、主に恥ずかしく申し訳なく、哀しい。
もったいない話です。
気づけば、気づきさえすれば、それで済むはずなのですから。


誰の心のなかにも尊いものが授けられてあります。