過日スーパーで買い物していたときのことです。
ある商品をみていたところ、わたくしとその棚の間に、カートを押した老人が無言で割り込んできました。
「なんですか?みているんですが。」ともうしますと、
「これとりたいから」と老人。八十前後といった年齢でしょうか。白髪頭で、がたいのしっかりした丈夫そうな方でした。
これとりたいから、はそうだろうとはおもいますが、人がその前にいるのですからよけて下さいなど言うべきでは?ともうしますと、
「じゃあ、避けて下さい」とこちらも見ずおざなりに言う老人。
すでに割り込んだ後に、それはおかしくないですか?など、わたくしがもうしますと、老人は逆上し、
「ふざけんな、このヤロー!」など悪態をついて去ってゆきました。
一言あれば済む話なんですけれどね。
商品があり、とりたいのであれば、すこしどけてもらえませんか?という。
うっかりしてしまうことは誰にでもあります。割り込んでしてしまい相手に迷惑をかけてしまったら、すいませんと謝る。
それだけのことだとおもうのです。別に難しいことではないはずです。
その一言だけで、相手も自分も気分を悪くすることなく、スムーズな人間関係が築けるというものです。
また、こんなことがありました。
あるSNSで、繋がりをもっている方の整理をいたしました。
考え方のお互い相容れない方や、交流のない方を清算したのですが、その一人からメッセージがありました。
「わたしといると痛いからか?」というものでした。
全く意味がわかりませんので、どういう意味なのか伺いましたが、解答はありませんでした。
いつもの伝で、ご自分がおっしゃりたいだけおっしゃり、相手がどうおもおうが、理解しようがしまいがお構いなしです。まともに問いに答えることはありません。
以前もその方にとってはその方なりにしっかり理由があったのでしょうが、全く説明もなかったため、傍からすればやりたい放題のことをし、わかったようなわからないような詭弁をいい、そのことについて一切説明もなく、一言も詫びることなく戻ってらして、ありがたいご忠告をくださった方ではありました。
そんなふうだから、はなから交流にはならず、清算の対象にもなったわけなのですけれど。
それも考えることなく、あたかもわたくしに問題があるかのようにおっしゃってくるあたりが、確かに痛いといえば、痛いことです。
いくつになっても、成長しない人は成長しないものです。
年齢と、人間の成熟度はイコールしません。
当たり前のことですが、改めて感じいりました。
成長しようとしない限り、人は成長いたしません。
逆に、成長しようと努めれば、いくつになっても成長できるものなのでしょう。
痛い人は、自己を省みることなく、他者をおもいやることに欠けた部分があります。
米教を学ぶ身でありながら、です。
残念なことです。
ご自分を特別だと、勘違いされているのではないでしょうか。
米教のなにを学ばれてきたのか。
いと小さき者と知れ、をご存じのはずですが、上辺だけだったのでしょう。
いくら知識があっても、理解の度合いが言動に表れてしまいますね。
あまり発言なさらない方なので、ボロが出にくいだけで。
わたくしは、どんどんボロは出してゆくべきだとおもいます。
誰かが指摘してくれる可能性があり、確かにみっともないことですが、聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥です。
他人が指摘してくれなかったとしても、出たボロは自分で眺め、観察し、客観的に捉えることができます。
取り澄まして、わたしはわかってますとしているより、成長のためになりますから。
わたくしは常々人にいい、わたくし自身にいい聴かせていることですが、自分を特別とおもったらお終いだということです。
その時点で、成長がとまるからです。
驕りが生まれると、せいぜい現状維持ができればいい方で、たいてい堕落してゆきますから。
米教の教えに反することです。
いかに自分が小さい、愚かな存在であるかを知ることが大切です。
そうでなければ、米教はとうてい理解できませんよね。
それらの出来事から、改めて、いと小さき者と知れの大切さ。
身返るの大切さを教えられました。
身返るとは、己の身を返りみる(省みる)ことですね。
他人の振り見て我が振り直せ。
…ここまで書いて終わりにしようかとおもっておりました。
ですが、ふと閃いたことがありました。
あのお二人に共通するキーワードがある、と。
それは“恥”です。
お二人とも、失礼ながら、恥知らずですね。
恥とは、心に耳をもつことです。
他人の云うこと、他人のおもいを聴こうとすること。
相手が何を云わんとしているのか、こう云ったら(したら)相手にどう伝わるのかを知ろう考えようとする働きです。
米教を学ばれていらっしゃる方はここで気づかれたかとおもいますが、胸を読むということに通じるわけですね。
他の胸を読めて初めて、他を救うことができます。
すべてがリンクしてゆきます。
もちろんそうです。
米教とは、神としてふさわしい心に育ってゆくためにある教えですから。
ですから、恥知らずでは、困るわけです。
わたしはすごいのよ、特別なのよと取り澄まして、とり違いすることなく。誇りは、積もり積もると埃とおなじで、心を曇らせます。
だから他人の気持ちに気がつけなくなってゆく。…
取り澄ますことなく、心の耳を澄ますこと。
心の耳を澄まし、人のおもいや、自らにある尊いもののおもいに、気がついてゆくこと。
すでに桜もほころびかけたところがあります。
寒さのなかにも、春の気配がすこしずつ。
すこしずつでもいいんです。
根気よく、大切に、あなたの花を育てていってください。
かならず、芽ぶき、花は咲きます。
その種を、みんなあたえられているのですから。
心の耳を澄まして、神の御心をかんじとってゆきたいものですね。
