聖書の言葉です。2/2 | 牧師剣士     (堺育麦キリスト教会牧師)

牧師剣士     (堺育麦キリスト教会牧師)

48歳から28年ぶりに剣道再開。
すっかりはまってしまいました。
57歳で五段をいただきました。長年クリスチャン剣士でしたが、2010年11月に牧師になりました。これからも神と人に仕える者となっていきたいと願っています。剣道修業も続けていきます。

2015年7月12日



今週の暗唱聖句と解説


だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。  マタイ6章34節


おはようございます。

今朝の聖句は、「あすのための心配は無用です」ってなんてお気楽な言葉を・・・・と思うかもしれません。

私達は、よりよい明日を目指して頑張っているのではないでしょうか。

しっかり勉強したり・・・・。節制したり・・・・・。訓練したり・・・・・。

すべて明日のためにやっているのです。昔、「明日のジョー」というボクシング漫画がありました。明日のためにその1、その2、と続いてだんだんと強くなっていきます。

 聖書は、このような明日に向かっての努力を否定しているのでは当然ありません。この言葉の書かれた前段には、私達の人生には私たちでどうすることも出来ない事がある事が書かれています。

 そして必要以上に心配し、思い煩いやすい者であるのが人間の弱さです。心配したからと言ってもどうにもならない事を悩み始めて苦しんでいる人もいます。

 中国にも天が落ちて来るのではないかと恐れ悩んだ「杞憂」と言う言葉がありますが、その思い煩いから、明日の為の心配ばかりしている人もあるのです。

 しかし、私を愛して下さっている神様がおられる。神様がすべてを心配して下さり、その道を用意して下さっていると信じる者は、必要以上の心配はしないのです。

明日の事は、明日をつかさどる神様が心配して下さるのです。そういう意味でクリスチャンは、ある意味お気楽な人生です。

 この世の事だけでなく、永遠のいのちまで与えて下さっているのです。死さえも怖くないのです。

 人間にとって最後の敵である死にさえ、神様と共に歩める時であると信じれる事は何という恵みでしょう。明日をゆだねて心配せずに生きる者こそ、今日と言う日を「労苦はその日その日に十分あります」との言葉通り、精いっぱい生きれるのではないでしょうか。