誰かを愛するには、まずその誰かから愛されることが必要で。
誰かから愛されるには、まずその誰かを愛することが必要で。
それが始まりとなって、のちに綺麗な愛の循環がお互いの間に成立すること。
それが愛の究極の形というものなのだろうか。
愛とは時に無情なもので、二人が一緒にいるその時には姿を見せず、背後で静かにお互いの行方を見守っている。
些細な言葉の行き違いと誤解で二人の仲が壊れ去った時、愛はその姿を思い出という時間に現わし、その時まさに愛があったことを伝える。
当時何とも思わなかった時間こそが実は貴重なものであり、そのなんでもない時間こそ、今となっては二度と作り出すことのできない唯一無二であったことを思い知る。
あの頃に戻りたいと思った時に、もう戻ることはできず、もう一度会いたいと思った時にはその全ての方法を失ってしまっている。
時間は前に進み、思い出は時間を後退することを選ぼうとする。
その時間と思い出が心の中でこすれ合い、人は心に痛みを伴う。
その愛が誰のものであるかと聞いたとき、人はそれを相手のものだと言い、自分は尽くされるよりも尽くすことに己を懸けていると言う。
誰かを愛することで得られる充足感や充実感はどこか隅に追いやらているものでもある。
愛はきっとまず最初に自分を癒すものであり、活力を与えるものであり、それがもう少しその人の精神とともに進化した先で、我が身をいとわず誰かの癒しになることや、誰かの為に苦を得ることを選べるようになるのだろうか。
愛とはとにかく誰かの為に生き、誰かの為に役に立ちたいと自分を奮起させる作用があると思う。
その愛が思いがけず壊れ、思い出に姿を変えたとき、途端に人は愛の価値と自分の価値を見失う。
きっとそれも愛そのものが持つ表現の一つであるのだろうし、愛を知るために通らねばならない道なのだろう。
愛の始まりは自愛であり、最後は他愛へとたどり着く。
"あなた自身のようにあなたの隣人を愛さなければならない"
キリストが観た愛がどのようなものであるかは分からないが、きっとキリストはその愛が壊れたり聞き入れられなかったからと言って、怒りに打ち震えたり、過去を悔いることはなかったのではないか?
人はその一生を通して大なり小なり、世の為、人の為へと役立つように使命を帯びている。
その役割と使命を通して自愛を知り、他愛へと発展するようになっている。
だからその愛が今は自愛でしかなかったとしても。
自分が捧げた愛に見合う見返りがなく怒りに震えたとしても。
それも愛の一つであるし、愛が持つ表現の一つであると思う。
とにかく一生懸命愛し、身を捧げ、心を捧げ、共に喜び、共に労り、共に哀れみ、共に励まし合うことだ。
その繰り返しがやがて自愛から他愛の人へと押し上げていく。
私はそう思う。
hello.my friend.
finally i wrote this blog.
however i wrote the all by Japanese.
perhaps, it's hard to understand for you.
if you have something question from my blog at that time.
please ask the question me.
i necessary answer you.
see you...