日本万国博覧会55周年の記念フェスティバルが開催されています。
 

   

 日本万国博覧会は、昭和45年3月14日に開会式が催され、3月15日に一般入場が始まりました。我が国の高度経済成長期を飾る一大行事でした。閉会の9月13日迄の来場者は6400万人に達し、会場は大変な熱気に包まれました。今年で55年になります。

 

大阪万博55周年記念フェスティバル「つなぐフィルム1970」
 

イマーシブシアター(時を超える没入型演劇)
 開催日 令和7年3月15日、16日
 場所 万博記念公園にて
 (万博記念公園内を、演劇を観劇しながら移動して、日本万国博覧会を追体験します。)(事前申込が必要です。既に定員に達しているようです。)

 

ARの公開日程 令和7年3月15日から10月中旬迄
 

 (万博記念公園内の4箇所でスマートフォンをかざしますと、お祭り広場や企業館、外国館など、日本万国博覧会当時の施設15箇所の情景が浮かびあがります。)

 

AD

万博の台湾館

テーマ:

万博の台湾館

 

   4月に開幕する万博には、台湾も参加しますが、玉山デジタルテックと云う企業が参加すると云う形態をとります。テックワールドと云う名称のパビリオンが設置されます。台湾が誇るデジタル技術を駆使し、映像技術を融合させた展示が行われるようです。
 

   台湾の万博参加が、国家としての参加ではなく、企業の参加となるのは、簡単に言えば、中共の圧力によるものです。万博主催者などが、圧力に屈しているのです。
 

   また、万博参加にあたって、台湾側は主催者側から、パビリオン内などで、台湾、中華民国の国名、そして、台湾を意味するフォルモサと云う呼称を用いないことを約束させられたとのことです。
 

   パビリオン内外で、表面上は台湾からの出展であることが分からないようにすることが、台湾が万博に参加する条件とされているとのことです。
 

   パビリオンの外観のデザインは、玉山(新高山)などの巨峰が聳(そび)える、台湾中央部の山脈を念頭に置いたもののようですが、そのことにも、台湾側は言及出来ないことになっているものと思われます。
 

   万博の主催者は、我が国の有好国である台湾に対して、余りに酷薄な対応をとっているものと言わざるを得ません。一体何故、そこ迄、中共の意向に従わないといけないのでしょうか。
 

    万博の主催者は、恐らく、パンフレットなどでも、台湾が万博に参加していることには、一切言及しないものと予想されます。
 

   こう云う状況でありますので、万博来場者の側が、テックワールドパビリオンが、事実上の台湾館であることを、よく認識しておく必要があります。
 

  万博会場に足を運ぶにあたっては、万博会場内に、台湾館があることをよく覚えておきましょう。そして、是非、見学しましょう。

 

 

 

 

 

 

 

日本万国博覧会記念切手(台湾、昭和45年)

 前回の万博では、台湾館(中華民国館)は太陽の塔のすぐ近くに設けられました。

 台湾館では、台湾国民の生活、台湾の農業や工業の発展、発展途上国への農業の技術協力に関する展示などが行われました。

 この切手は、台湾国内と同時に万博の台湾館でも販売されました。当時は切手ブームでよく売れたようです。台湾館の外観が描かれています。

 

 

 (切手の接写が余りうまく出来ませんでした。また撮り直します。)

 

 

 

 

 

 

 

 


 
 
 

令和7年・東京春の行事など

 

桜の名所・靖国神社での行事
靖国神社・夜桜詣……令和7年3月23日から3月29日迄(午後6時から午後8時)
     奉納演芸……3月23日正午
     奉納大相撲……4月14日
     奉納夜桜能……4月3日、4日(参観は申込が必要)

靖国神社の桜の花の下で「同期の桜」を歌う会……3月29日(土)午後2時45分より、靖国神社大村益次郎銅像前にて
 

神保町さくらみちフェスティバル・春の古本まつり……3月20日から23日迄、神保町古本街にて
 

湯島天神梅まつり……2月8日から3月8日迄
 

高尾梅郷梅まつり……3月8日、9日
 木下沢梅林、するさし梅林の開放……3月1日から16日迄
 

香林寺五重塔まつり……3月20日(川崎市)
 

 

 

写真と絵画でみる昭和30年代の東京風景……令和7年1月11日から4月13日迄、新宿歴史博物館にて
 

鍋島侯爵家と松濤……令和7年1月21日から3月23日迄、白根記念渋谷区郷土博物館・文学館にて
 

「日常をつくる!企業博物館からみた昭和30年代」……1月18日から3月23日迄、たばこと塩の博物館にて
 

郵貯の世界……12月24日から3月23日迄、郵政博物館にて
 

「和風×台味 台湾鉄路の食文化」……2月22日から6月2日迄、鉄道博物館にて
 

「東京・埼玉・千葉の鉄道風景写真展」……3月1日から9日迄、田端ASUKAタワー17階にて(田端駅下車)
 

 (昭和31年に在日米軍関係者として来日し、昭和30年代から50年代にかけて趣味で日本全国を旅して、膨大な量の鉄道写真を撮影した米国人、J・W・ヒギンズ氏の写真展です。ヒギンズ氏の鉄道写真は、その撮影枚数が非常に多く、日本人の報道カメラマンや写真家、鉄道ファンが余り撮影していないと思われる鉄道光景をも多くフィルムに捉えています。嘗ては、カラーフィルムが高かったことなどから、昭和40年代半ば頃迄は、写真の多くは白黒フィルムで撮影されていました。そのような時代に、ヒギンズ氏の風景写真は多くがカラーフイルム、それも褪色の少ないフィルムで撮影されており、その点でも貴重な記録となっています。)
 

 

 

  

 

 

 

(「東京・埼玉・千葉の鉄道風景写真展」の開催を報ずる産経新聞の記事に関してですが、

 その新聞記事に、昭和30年頃は「食べるのがやっと」であったと書いてありました。その頃は、昭和40年代半ば以降のように豊かでなかったことは確かです。戦後復興もほぼ完了に近づいていた時期で、生活が或る程度改善されたと感じていた人も多かったのではないでしょうか。多くの人は「食べるのがやっと」であったと云う表現は少し違うのではないかと思います。昭和31年の経済白書に「もはや戦後ではない」と記述されます。昭和30年頃に、鉄鋼の輸出額が繊維製品の輸出額を上回ります。そのような時期です。
 

 また、昭和30年頃は我が国に鉄道ファンは殆ど存在していなかった、と同記事に書いてありました。鉄道ファンが、100万人単位で存在するようになったのは、恐らく昭和40年代後半以降でしょう。そうだとしても、決して、それ以前は、鉄道ファンが極めて少なかったと云うわけではなかったのではないでしょうか。鉄道ファンは戦前から存在しています(例えば『時刻表昭和史』、『大阪の電車青春物語』など。)鉄道ファンが撮影した写真には戦前からのものがあります。戦後は戦前よりも次第に数を増やしていったのでしょう。但し、昭和40年代半ば頃迄は、目立って多くはなかったのではないかと思います。)

 

 

 

 

 

 


 

 

万博記念公園(吹田市)で梅まつりが開催されています。
 

万博記念公園・梅まつり……令和7年2月8日から3月9日迄
 

 つばき祭りも同時に開催されています。

 

 今年は梅の開花が遅いようですが、ここ数日の気温上昇で、花開く蕾が一気に増えているようです。見頃を迎えるのも近いのかも知れません。

 
 

 

 以下、趣味に関する記述です。

 

 

大阪春の切手展が開催されます。
 

大阪春の切手展……令和7年3月8日、9日、京セラドーム大阪9階スカイホールにて(阪神電車・ドーム前駅、地下鉄・ドーム前千代崎駅下車)
 

 多くのアルバム作品が展示されます。
 

 切手店の出店もあります。
 
 

 

 

 

 

 

 

(昭和45年の日本万国博覧会開催から3月14日で55年になりますが、前回の万博の頃は、切手ブームが最も加熱した時でした。大都市では郵便局に長い列が出来ました。大都市以外でも、郵便局によっては、発売当日に売り切れるところが多くありました。切手に夢中になる小中学生が多くいました。
 

 切手を集める人が、それなりに存在するようになったのは昭和戦前期でしょうか。明治大正の頃は、郵便関係で何か集める人は、どちらかと云えば絵葉書に関心を向けたのではないかと思います。昭和に入ってから、日本郵券倶楽部(切手趣味社)が、カタログを整備し、通信販売を広く手掛けるなどしたことが、切手蒐集人口拡大の、一つの要因になったとも言われているようです。昭和12年頃には、松坂屋や阪急百貨店に切手売り場が設けられています。個人店舗の切手店も徐々に増えていったのでしょう。
 

 戦後は、物資が欠乏して生活が苦しい状況にあったにも拘わらず、例えば、プロ野球中継が大変な人気を博すようになったり、ラジオ工作の雑誌が何誌も発行されたりするようになったりするなど、趣味が急拡大しました。その中で、切手の蒐集人口も急激に増えました。切手に関する書籍も戦前に比べると多くなり、雑誌も多く刊行されています。
 

 その後、戦後復興期、高度経済成長期に於いても、切手は子供が関心を抱き易い一分野であり続けました。特にブームであったとされる時期も何度かあったと言われますが、最もブームが過熱したのは、昭和40年代半ばでした。
 

 昭和47年、48年頃になりますと、切手ブームは次第に沈静化していきます。切手を集める人が目立って少なくなったと云うわけではありませんが、加熱した状況は解消されていきます。この頃はSLブームもあって、鉄道ファンが増加した時期と重なっています。鉄道ファンが増加して、その代わりに、趣味人口が或る程度、移動して、切手ブームが下火になったと云うことが、或いは、言えるのでしょうか。
 

 切手ブームが去った昭和40年代末以降も、切手蒐集は多くの趣味人口が存在する一分野であることには変わりはありませんでした。切手の好きな子供は多く存在しました。切手を集める大人も多くいました。昭和50年代頃は、切手展に出品される小中学生の作品の水準が、かなり高くなっていたようです。
 

 平成10年頃迄は、百貨店の切手売り場などに客が集まっている様子がよく見られたと思います。その後は、蒐集人口の減少がはっきりと感じられるようになりました。現在、切手を集める人は、10万人~20万人程度は存在しているのでしょうか。嘗てに比べると、大幅に少なくなってしまいました。
 

 近年は、切手蒐集人口の減少をはるかに上回る形で、切手店の数が急速に少なくなっています。
 

 切手蒐集の世界は、嘗てに比べると寂しくなってしまいました。残念に思います。)