青胴車の写真(3)
尼崎駅にて
尼崎駅の外観
貴布禰神社(撮影した時はお祭りの準備中でした。)
尼崎中央商店街
焼きそば、カレー、うどん等をはじめ飲食店が多くあります。眼鏡店、文具店、おもちゃ屋なども並んでいます。
尼崎中央商店街と交叉する、三和商店街。
生鮮食料品の店も多くあります。
せいか
青胴車の写真(3)
尼崎駅にて
尼崎駅の外観
貴布禰神社(撮影した時はお祭りの準備中でした。)
尼崎中央商店街
焼きそば、カレー、うどん等をはじめ飲食店が多くあります。眼鏡店、文具店、おもちゃ屋なども並んでいます。
尼崎中央商店街と交叉する、三和商店街。
生鮮食料品の店も多くあります。
せいか
青胴車の写真(2)
西ノ宮駅にて
今、写真を取り出せないのですが、近隣には西宮神社があります。現在陶器市が開催されています。(2月2日迄)
白鹿記念酒造博物館などもあります。
尼崎センタープール前駅にて
菜切塚は、武内宿禰のお墓であると伝えられています。
崇徳上皇、後醍醐天皇がこの近辺に、ご滞在になったことがあります。古くより名蹟として知られていました。
琴浦神社は源融公を祀る神社です。
昔は、尼崎の海岸線は現在よりも北側にありました。
嘗ては風光明媚なところで、この地に琴浦の美称があります。尼崎城にも琴浦城の異称があります。
(撮影した時、逆光でして、このような角度での撮影になりました。)
尼崎センタープール前駅の近辺には、昭和40年代~50年代頃と余り違わない町並みが見られるところが多いのですが、建て替えられるところも増えているようです。
畳・襖の店も健在でした。
最近は少なくなってきた煙草屋さん。
写真は少しづつ追加していく予定です。
青胴車の写真
打出駅
打出駅は、昔ながらの駅です。
高架化していない駅には、落ち着いた雰囲気があります。
静けさと、涼やかな空気感があります。
打出天神社は、阪神電鉄沿線に多い、天満宮の一つです。
阿保親王陵
踏切は、鉄道の光景、町の光景に彩りを添えます。
青胴車が踏切を通過する場面を写してみたいのですが、本数が少なくなってしまい、なかなか機会を得にくくなってしまいました。
芦屋駅
カラーブックス『日本の私鉄 阪神』(保育社、昭和57年2月)に芦屋駅を南側から撮影した写真があります。
個人では、同じ角度からは撮影出来ませんが、角度は異なるものの、同様に南側から写しました。
カラーブックスの写真は、写真に桜が写っていることと、発行年次から昭和56年春に撮影したのではないかと思いますが、
44年間で、駅に関しては、そう大きくは変わっていないと思います。
但し、この辺りも、阪神淡路大震災の被害が大きく、駅周辺の建物は、多くが建て替えられているようです。
芦屋駅は、戦前から基本構造は同じです。昭和55年に、東側の改札口が作り替えられました。
それ以後は、そう大きくは変わっていないと思います。
カラーブックスの写真を見ますと、現在よりも以前のほうが趣があったように思います。
平成元年版の『日本の私鉄 阪神』には、当時の住吉駅の光景が出ていまして、これも印象に残る写真です。同じ場所で写して、比較してみたいと思うのですが、個人では、同じ角度での撮影は不可能です。
芦屋駅の上り線を出発する青胴車を撮影。
芦屋駅構内で撮影。
駅の様子を或る程度含めて撮影したいのですが、どうもうまく出来ません
青胴車でこのような場面を写してみたいと思っても、本数が少なくなり機会を得るのが難しくなりました。
芦屋駅では車体の下部がよく見えますので、青胴車でこのような写真を撮ってみたいのですね。
(下りホームから上り電車を撮影。)
青胴車でこのような場面も写せたらいいなと思っています。
下の写真は芦屋駅の東側改札口です。昭和55年に改修されました。この頃に高架化された駅と同様に、改札口や階段付近はタイル張りです。
芦屋駅の西側改札口や通路は、出札、改札が自動化されている点を除けば、昔ながらの懐かしい改札口、通路です。芦屋駅に行く機会がありましたら、ぜひ行ってみて下さい。(今、写真は取り出せないので、後程掲載します。)
(近隣案内)
芦屋警察署は、改築されていますが、昭和12年の建物の外観を踏襲しており、玄関部分は保存されています。
国道2号線を東側に向かいますと大楠公戦蹟碑があります。
桜咲く芦屋川の東河畔を遡っていきますと、在原業平の「春の心はのどけからまし」の歌碑があります。
東海道本線と阪急神戸線を超えて、更に、かなりの北側になりますが、芦屋神社があります。
青胴車の車内
(写したのが8月だったので「熱闘甲子園」の広告が出ています。夏になりますと、阪神電車車内には、高校野球開催のお知らせや、「熱闘甲子園」、雑誌「報知高校野球」などの広告が吊り下げられます。電車車内の広告にも季節が感じられます。)
阪神・青胴車の引退は残念
阪神電鉄の青胴車は、現在一編成のみが運転されていますが、その一編成も今年2月10日を以って引退する予定、と発表されました。
昭和30年代以降、阪神電車と云えば、赤胴車、青胴車でした。赤胴車、青胴車は長い間に亘って多くの人に親しまれてきました。赤胴車は、平成20年に西大阪線から、平成23年に本線から引退し、令和2年には武庫川線からも最後の8輛が引退しました。青胴車も、数年前から、最後の形式である5001形(二代目)が、次第に数を減らして、昨春には残り一編成のみとなっていました。そして、とうとう完全に引退することになりました。大変残念に思います。
最後の青胴車(5025-5028)は今年1月7日頃から、先頭車前面右下側に貼付されていたマークが取り外されており、本来の姿で運転されています。
阪神電鉄のホームページには、現在、営業運転各日の青胴車の運行予定が掲載されています。
青胴車に乗車する機会がありましたら、青胴車の外観、内装など車内の様子、走行音、安全確認のリンリンと云う音などに注目しておいて下さい。
阪神電車の車窓の光景は、住宅地(昔ながらの住宅も多い)、駅前の商店街、神社(尼崎えびす神社、鳴尾八幡神社の鳥居、西宮神社の杜など)、工場(姫島ー千船のあたり)、武庫川線との連絡線、武庫川線の武庫川駅舎など、内容豊富で次々と展開されます。西向きに乗りますと西宮あたりから、六甲の山並みが次第に迫ってきます。打出駅は昔ながらの駅です。住吉駅、御影駅などは戦前からの高架駅です。川を多く渡るのも特徴です。川幅の広い新淀川、河川敷に松と桜の木のある武庫川があり、芦屋駅、大石駅などでは六甲の山並みを背景に、芦屋川、都賀川などが流れる様子が見えます。近年は大きな建物が増加したことで、以前に比べますと景観が次第に損なわれてきている区間が多くなっていることは確かです。それでも、よく見ますと、色々と観察出来ます。落ち着いた気分になれる萌黄色の車内から阪神地方の光景もよく見ておいて下さい。
引退前の企画の一つとして青胴車が、貸切列車として、1月27日と30日に西大阪線を走行します。
阪神電鉄で、赤胴車、青胴車が主流となった昭和30年代後半以降、西大阪線では赤胴車が運転されることが多かったものと思いますが、例えば平成10年代頃から平成21年にかけては、青胴車の運転も多かったように思います。平成21年3月に西大阪高速鉄道(西九条-難波)が開業して、西大阪線の営業が難波迄延長されますと、阪神なんば線(改称)での赤胴車、青胴車の運用はなくなりました。
昨年12月の企画では、久しぶりに青胴車が西大阪線を走行しました。今月も、2回走行します。
西大阪線の歴史の中で、青胴車の運用が多かったのは短い期間に限られると思いますが、それでも、西大阪線、青胴車の情景の一部です。
遭遇しましたら、よく見ておいて下さい。
令和7年1月25日投稿
1月27日修正
大阪市立科学館で万博展が開催されています。(タイムカプセル、電算機、月の石、会場の光景など。)
「万博で夢見たサイエンス展」……令和6年12月6日から令和7年4月6日迄、大阪市立科学館にて(福島駅、新福島駅、肥後橋駅下車)
昭和45年に開催された日本万国博覧会での、科学技術や月面探査などに関する展示や企画、万博会場の光景などを、主に振り返る内容です。
前期(1月26日迄)は、万国博でのコンピューターに関する展示を、当時の大型コンピューター「IBM System/360」などとともに振り返り、その後のコンピューターの発展をたどる内容となっています。国鉄が誇る、みどりの窓口の指定券発券システム「マルス」の端末も展示されています。
後期(2月5日から4月6日迄)は、万国博での「月の石」等をはじめとするアメリカの月面探査などの展示を振り返り、我が国の小惑星探査を含めて、万博以後50年間の宇宙探査をたどる内容となっています。
共通展示として、万博会期終了後に大阪城公園に埋設されたタイムカプセルの収納品の展示があります(一部の展示です)。タイムカプセルが作成された際、タイムカプセルの筐体及び収納品と同一のものが大阪市立博物館(現在の大阪歴史博物館)にも寄託されました。収納品は、企画展などに際して時折公開され、現在に至っています。その他、サンヨー館で展示されて話題になった人間洗濯機などの映像もあります。万博会場の光景(※)も記録映像で振り返ることが出来ます。
(※)朝の開場時の風景、入場券のもぎり、入場口によっては警備員さんが誘導、大勢の来場者が行き交う、動く歩道も大活躍、パビリオン入り口の行列、モノレールから見た会場の様子、会場内のタクシー(電気自動車)、最高齢の入場者と思われるおじいさん、急病人と迷子の子供の保護、会場の管理にはコンピューターを駆使、会場の夕景など。(23分の映像)
(確か、平成22年に日本万国博覧会40年を記念して発売された「スペシャルDVD」では、このお年寄りは、104歳と言っていたように思います。そうだとしますと、江戸時代に生まれた人が少なくとも一人は来場しているのですね。)
(日本万国博覧会が開催された昭和45年当時に、阪神地方で運転されていた旅客車輛は、現在では少なくなってしまいました。現存するのは、阪急の3300系(京都線、千里線、残り3編成)、5000系(今津線の西宮北口-宝塚間)や能勢電鉄の1700系などでしょう。
阪神では、昭和30年代からほぼ同じデザインを踏襲してきた赤胴車、青胴車が最近迄、走行しています。大変残念ながら、昭和43年製造の6輛を含む最後の赤胴車8輛は令和2年に引退しました。青胴車も、二回目の万博を待たず、最後の一編成が、今年2月10日を以って引退すると発表されています。
鉄道好きの人でしたら、昭和45年当時、万博鉄道輸送の一翼を担った車輛とほぼ同じデザインと云うことで、阪神福島駅などで、万博関連としても青胴車に注目してみてはどうでしょうか。青胴車の運用予定は、阪神電鉄のホームページに掲載されています。)
令和7年1月24日投稿
27日修正
2月4日修正 (万博当時存在していて、現在も走行している車輛として阪急3300系を書いていませんでした。)
(万博期間中、阪急の千里線では大量の乗客が見込まれる為、昭和42年から44年にかけて、京都線・千里線用として(そして堺筋線乗り入れ用として)、一挙に3300系車輛が、120輛が製造されました。昭和30年代に製造された1010系、1300系、2000系(能勢電鉄に転入した車輛は1700系に。2編成が現存)などに加えて、万博当時の最新鋭車輛である3000系や3300系が阪急の万博輸送の主力で、そして鉄道ファンの間で人気の高い、新京阪時代からのP-6も万博輸送に活躍しました。
基本的に今津線・宝塚線用となっていた810系も、乗り継ぎで万博輸送を担っています。昭和20年代に製造されたその他の車輛も、神戸線、京都線・千里線で活躍したと思います。昭和30年代に、鉄道車輛の近代化が急速に進んだことで、昭和20年代以前の旧型車輛、特に戦前から昭和20年代初頭の車輛は、昭和40年代には目立って少なくなっていったと思いますが、まだ万博の頃は、P-6以外にも戦前の車輛が少数ながら活躍していたようです。)(記述に当たってはネット情報を参照しています。)