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涼雅の気になる事&海に帰りたいに付いて

気になることや海に帰りたい関連を書いていきたいと思います
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現在、認知症の患者数は、推計208万人(厚生労働省)。ただし、予測を上回る
ペースで増えているというのが専門医の一致した見解で、「2015年には300万人を
超える勢い」という。だが、「物忘れ」と「認知症」は違う。

物忘れ
「例えば近所の顔見知りの人の名前が出てこない、テレビの俳優の名前が
思い出せない、何を食べたのか忘れるは、たんなる物忘れで心配はいりません

認知症
自分の妻や息子や娘の名前を忘れてしまったら、認知症の疑いが非常に濃い。
食べたこと自体を忘れて「ご飯まだか?」といったりしたら注意が必要。また、
自分の家にいるのにどこにいるのかわからなくなってしまい、「家に帰る」と
言い出したりしたら、もう初期段階をすぎた、ボケの状態が疑われます。

物忘れは、中高年になれば誰にでもあること。認知症との違いは、忘れる
内容の“重大さ”なのだ。
要するに、肉親の名前などは長い年月記憶し続けているものであり、
ちょっとやそっとでは忘れる事が通常ありえない事であり、
たとえば、何気なくとっている食事などは、覚える必要も無く、忘れやすい、
といったところでしょうか。
3.自殺の事前予防、危機対応に加え未遂者や遺族等への事後対応に取り組む

自殺対策は、
Ⅰ事前予防:心身の健康の保持増進についての取組、自殺や精神疾患についての
  正しい知識の普及啓発等自殺の危険性が低い段階で予防を図ること、
Ⅱ自殺発生の危機対応:現に起こりつつある自殺の危険に介入し、自殺を防ぐこと、
Ⅲ事後対応:不幸にして自殺や自殺未遂が生じてしまった場合に家族や職場の
  同僚等他の人に与える影響を最小限とし、新たな自殺を防ぐこと、

の段階ごとに効果的な施策を講じる必要がある。未遂者や遺族等への事後対応に
ついては、再度の自殺や後追い自殺を防ぐことも期待され、将来の事前予防にも
つながる。これまで十分な取組が行われていないことを踏まえ、今後、事後対応に
ついて積極的に取り組むことにより、段階ごとの施策がバランスよく実施されることが
重要である。

これは、身近な人間が関係してくる事に重点がおかれていると感じる。
身内でさえ、鬱病などの理解をしていくのは難しく、かといって、国家任せだけでも、
問題があるといえるでしょう。また、身内などが少ない場合などの場合のケアは、
やはり国家としての役割が多いと思う。
また、自殺の連鎖については、いったい、どのような心理が動いているかを
研究していくべきだと思う。
2006年3月、富山・射水市民病院で末期がん患者など7人の呼吸器を
外し延命治療を中止していたことが報道された。2008年7月、元外科部長ら
2人が殺人容疑で書類送検されたが、2009年12月、富山地裁は一連の
医療行為をみて呼吸器を外した行為が死期を早めたとはいえないと判断、
不起訴処分(嫌疑不十分)とした。

古い話を持ち出してきましたが、尊厳死の問題は大きく深く考える時代に
なってきたといわざるをえません。
「生きている」と「生かされている」は大きな差があるという事も確かです。
ここで注意しなければいけないことは、終局的解釈と違い、科学的な、
「生きている」と「生かされている」という事です。

私自身、親族の延命措置を見てきたし、また、延命処置をしない場合も、
みてきましたが、いかに、どちらが人間らしく生を全うしたかというと、
私自身の経験では、やはり延命処置をしない場合のほうが、生き生きとし、
余生を送っていたような気がします。
無意味な延命処置で行動の抑制などをして、最後まで苦しみを与えるのが
最良なのか?と感じました。実際問題、私の場合、母親の延命措置をせず、
また、ほとんど無意味な抗癌剤治療も最低限に抑えることで、
最後のときを迎える前日まで通常の生活をおくれていたことを考えると、
その選択をしたのは間違いではなかったのであろうかと思います。
ただ、やはり、延命処置を選択しなかったからの苦痛も確かにあることも、
事実です、私が母親の最後の切符を切ったようなものですから・・・。
京都府舞鶴市の中学校で、イジメ問題に対するユニークな取り組みが
行われている。生徒は「イジメをしません」と宣言し、バッジを制服に付ける。
イジメられたり、イジメを目撃した生徒はバッジを外して、SOSを周囲に
知らせるのだという。

果たしてイジメを「人に気付かせる」ことは正しい対処法なのだろうか?
イジメをすることに明確な理由はない。昔のように大勢の中に貧乏人の
子供がみすぼらしい格好をしていてイジメられるというようなこともなく、
イジメられている子はただ「イジメられている子という記号」を持っている。
すなわち、同じクラスという関係性において「イジメてもいい子」という烙印を
押されることによって、イジメが発生する。すると、子供がイジメられているときに、
バッジを外したとしてそれはクラスの内外に「私はイジメられている子です」
ということをアピールすることになってしまう。それは見えない烙印によって
起こっているイジメを、バッジを外すという行為によって、見える烙印に
変化させてしまうことを意味する。それはイジメられっ子にとっては
「私はイジメてもいい子です」とアピールすることに等しいのである。その恐怖は
どれほどのものだろう。

もちろん、バッチを外すことが一時の苦痛であって、このバッジ本来の趣旨通りに、
イジメの存在に気付いた教師が対処してくれて、イジメの問題が解決するので
あればいい。しかし、イジメられている子は、イジメられているという烙印があるという
理不尽な理由でイジメられているのだから、論理的手順をもってイジメが解決する
ということ自体を信用していない。そこで信用を得るためには、いじめられっ子に
教師が信頼されることが必要だが、そんな信頼がつくりようがないことは、数多くの
イジメ事件において、教師が責任逃れの態度を繰り返したり、下手をすれば自ら
イジメに加担しているような現状を見れば明らかだろう。さらに、授業時間の増大や
指導力の強化に子供の安全、果ては道徳や修身教育をを社会から求められながら、
教育関連の予算はロクに増えない現状に、教師たちはきりきり舞いさせられている。
そうした中でイジメというきわめて煩雑な「やっかいごと」が発生することを教師たちは
恐れている。そうした状況ではイジメが意図的に見過ごされるかもしれない。

このバッジのことを「イジメ解消に役に立たない対外向けのパフォーマンス」と
非難することもできるが、「やらないよりは、どんな方法でもやってみたほうがいい」
とも言える。という考えもあるが、いかにも「やればいい」では問題ある行為である。
何事にもメリット、デメリットが存在しいかに、デメリットを抑えメリットを活かすかが、
重要である事を忘れてはいけない、またこの学校の昔を知る私にとっては、
いかに教師の免罪符を得るための制度としかいえない。

「免罪符」を考える教師には、まず、イジメを解決・改善する事はできない。
生年未詳 - 応永24年1月10日は、室町時代の武将。父は鎌倉公方足利満兼、
叔父の足利満隆の養嗣子。幼名は乙若丸。満兼が身分が低い女性に産ませた
子で当初は上野国で秘かに育てられていたが、応永7年に満兼が正式に実子と
認めて鎌倉に呼び寄せた。応永16年に異母兄の足利持氏と同時に元服が行われ、
将軍足利義持より一字を与えられて持仲と称した。応永23年上杉禅秀に擁せられ、
養父の足利満隆と共に持氏に反乱し、持氏を追放して、一時的に鎌倉を配下に
収める。しかし室町幕府の後援による持氏の攻撃に遭い負け、鶴岡八幡宮
雪ノ下の坊で自殺した。

身分の低い女性の下で生まれ、静かに生を全うしていたら・・・。
と歴史にifは禁物だけど悔やまれるように思うのは現代人の考えか?
父筋の血統により立身出世を考えるのも武家の考えとしては正しかったのであろう。