父・満兼の死去によって鎌倉公方となった。しかし関東管領であった。
上杉禅秀や叔父の足利満隆と不仲で、次第に対立した。禅秀と満隆に
クーデターを起こされて一時、駿河に追放された。しかしこの反乱は、
翌年に越後の上杉房方らの助力を得て鎮圧している。
京都の将軍と鎌倉公方の対立は、持氏の祖父・足利氏満の時代にすでに
始まっていた。この時は関東管領上杉憲春の諫死で対立は未然に
防がれたが、関東に支配権を延ばそうとする将軍と、それに抗する鎌倉公方の
衝突は宿命的なものであった。
1423年に京都扶持衆の小栗満重が室町幕府の命令を受けて反乱を企てたと
してこれを攻め滅ぼし、続いて同じく扶持衆の宇都宮持綱・桃井宣義を倒して
関東から親幕府勢力の一掃を図った。これに対して室町幕府4代将軍足利義持は
持氏討伐を計画するが、持氏の謝罪によって討伐は中止された。だが、
関東御扶持衆を用いて持氏の勢力拡大を牽制しようとする幕府側とそれに
対抗しようとする持氏の対立は深刻化する一方であった。
5代将軍であった足利義量が病死し、前将軍であった義持も病死して将軍職が
空位となると、持氏は自身が足利氏の一族であるという名分から6代将軍の座を
望んだが、管領の畠山満家や三宝院門跡満済らの協議によって、6代将軍は
義持の弟4人のうちから籤引きで選ばれることになった。結果、天台座主義円が
還俗して足利義教として将軍職を継承することとなった。
この将軍職相続に義持の猶子となっていた持氏は不満を持ち、新将軍の義教を
『還俗将軍』と軽んじ、義教の将軍襲職祝いの使者を送らなかった。さらに元号が
永享に改元されても前年号の正長を使い続け、本来ならば将軍が決定する
鎌倉五山の住職を勝手に取り決めるなど、幕府と対立する姿勢を見せ始めた。
持氏と同じ時期に管領を継承した関東管領・上杉憲実は、持氏と義教の融和を
懸命に努めたが、持氏は応じなかった。更に憲実が持氏に討たれるという噂が
流れ、徐々に両者の溝は広がっていき、憲実が関東管領を辞職している。
一方、幕府においても宥和派の管領・畠山満家が永享5年に、満済が永享7年に
没すると義教を止めることのできる人間は存在しなくなった。
永享10年6月、持氏の嫡子賢王丸が元服を迎えて名を改める際、本来ならば
将軍に一字を拝領する慣例であったが、それを行わず「義久」と名付けた。憲実は
この元服式に出席せず、憲実と持氏の対立は決定的となった。8月、憲実は
鎌倉を去り、領国の上野国へ下った。これを憲実の反逆と見た持氏は討伐の兵を
差し向け、自らも武蔵国府中高安寺に出陣する。
将軍・義教は憲実の救援のため、篠川御所足利満直や駿河守護今川範忠の出兵を
命じた。さらに禅秀の子上杉持房・上杉教朝らを含む幕府軍を派遣する。同時に
持氏追討の治罰綸旨の発給を求め、持氏は朝敵となった。9月27日には持氏軍は
破れて相模の海老名まで引いたが、鎌倉を守護していた三浦時高等武将の裏切りが
相次いだうえに兵は逃亡し、持氏は孤立無援となった。
持氏は鎌倉に引く途中で憲実の家宰・長尾忠政と出会い、憲実に義教との折衝を
依頼する。その後鎌倉称名寺で出家し、永安寺に幽閉された。憲実は持氏の助命と
義久の公方就任を懇願したが、義教は許さず、憲実に持氏の追討を命じた。
永享11年2月10日、憲実の兵が永安寺を攻撃、持氏は自害して果てた。
当時、京都・鎌倉の2極性政治と、血統関係による将軍職につく場合の優先順位が
明確でなく、それによる悲劇であろうと推測される。
ロボトミーの始まりは1935年にまで遡る。その年、米イェール大学の
カーライル・ヤコブセン博士とジョン・フルトン博士らはチンパンジーに
対して前部前頭葉を切除する手術を行い、結果、チンパンジーの
"実験的神経症"が克服されたという報告を行った。そしてそこから着想を
得たポルトガルのリスボン医科大学神経外科医アントニオ・エガス・モニス博士は
共同研究者のジェームズ・W・ワッツ博士と共に、「精神障害が前頭葉内の神経細胞に
異常なシナプス結合線維群を生ずるためにおこるという仮説に基づいて両側前部
前頭葉白質切截術を考案し、精神症状を対象とする脳手術の分野を精神外科と
命名」したのが最初であると言われる。
その手法とは頭蓋骨にドリルで穴を開け、" 白質切断用メス"と呼ばれる棒状の器具を
差し込んで前頭葉の神経繊維を切断し、繊維群の再結合を促すことで精神障害を
克服するというもので、モニスはこの方法で20人の患者に対して手術を行い、"著しい成果"を
挙げた事を学会に報告したのである。
モニスはロボトミーの考案者としてだけでなく、ポルトガルの国会議員(1903-17)や
外務大臣(1918)も務め、第一次世界大戦終結時には、パリ平和会議にポルトガル
使節団の一員として参加している(1919)。
当時は精神病患者への風当たりが今の風当たりと比べ物にならないくらい
人権を無視されていた時代背景を考えると「精神外科」の存在を否定はできないが、
手術失敗などでの悪化も多く、さらには死亡例も少なくなくそういった事を踏まえても
この術式が流行ったのは、精神病患者を無くす、身内から精神病患者を出したく無い
事の表れではないでしょうか?
カーライル・ヤコブセン博士とジョン・フルトン博士らはチンパンジーに
対して前部前頭葉を切除する手術を行い、結果、チンパンジーの
"実験的神経症"が克服されたという報告を行った。そしてそこから着想を
得たポルトガルのリスボン医科大学神経外科医アントニオ・エガス・モニス博士は
共同研究者のジェームズ・W・ワッツ博士と共に、「精神障害が前頭葉内の神経細胞に
異常なシナプス結合線維群を生ずるためにおこるという仮説に基づいて両側前部
前頭葉白質切截術を考案し、精神症状を対象とする脳手術の分野を精神外科と
命名」したのが最初であると言われる。
その手法とは頭蓋骨にドリルで穴を開け、" 白質切断用メス"と呼ばれる棒状の器具を
差し込んで前頭葉の神経繊維を切断し、繊維群の再結合を促すことで精神障害を
克服するというもので、モニスはこの方法で20人の患者に対して手術を行い、"著しい成果"を
挙げた事を学会に報告したのである。
モニスはロボトミーの考案者としてだけでなく、ポルトガルの国会議員(1903-17)や
外務大臣(1918)も務め、第一次世界大戦終結時には、パリ平和会議にポルトガル
使節団の一員として参加している(1919)。
当時は精神病患者への風当たりが今の風当たりと比べ物にならないくらい
人権を無視されていた時代背景を考えると「精神外科」の存在を否定はできないが、
手術失敗などでの悪化も多く、さらには死亡例も少なくなくそういった事を踏まえても
この術式が流行ったのは、精神病患者を無くす、身内から精神病患者を出したく無い
事の表れではないでしょうか?
4.自殺を考えている人を関係者が連携して包括的に支える
自殺は、健康問題、経済・生活問題、人間関係の問題の外、地域・職場の
あり方の変化など様々な要因とその人の性格傾向、家族の状況、死生観
などが複雑に関係しており、自殺を考えている人を支え、自殺を防ぐためには、
精神保健的な視点だけでなく、社会・経済的な視点を含む包括的な取組が
重要である。また、この様な包括的な取組を実施するためには、様々な
分野の人々や組織が密接に連携する必要がある。例えば、うつ病等自殺の
危険性の高い人や自殺未遂者の相談、治療に当たる保健・医療機関においては、
心の悩みの原因となる社会的要因に対する取組も求められることから、問題に
対応した相談窓口を紹介できるようにする必要がある。また、経済・生活問題の
相談窓口担当者も、自殺の危険を示すサインやその対応方法、支援が受けられる
外部の保健・医療機関など自殺予防の基礎知識を有していることが求められる。
また、このような連携を確保するためには、国だけでなく、地域においても民間団体も
含めた様々な分野の関係機関・団体のネットワークを確立することが重要である。
死生観は大きく作用していると思う、たとえば仏教やキリスト教では固く禁じられているし、
といっても、一向一揆や十字軍といった半自死行為は奨励されていた時代もある。
また、神道に限って言えば、罪穢れは、神が祓うという概念があり、死に方について、
優劣や軽蔑する事も無い。
また、自殺未遂者の応急手当は救急病院などであたるが、意識などが回復すれば、
即退院という事も多く、精神病院などへの転院することが救急病院側の判断にて、
行えるようにする事が、未遂者が、自死行為のやり直しを防ぐ効果があると思える。
自殺は、健康問題、経済・生活問題、人間関係の問題の外、地域・職場の
あり方の変化など様々な要因とその人の性格傾向、家族の状況、死生観
などが複雑に関係しており、自殺を考えている人を支え、自殺を防ぐためには、
精神保健的な視点だけでなく、社会・経済的な視点を含む包括的な取組が
重要である。また、この様な包括的な取組を実施するためには、様々な
分野の人々や組織が密接に連携する必要がある。例えば、うつ病等自殺の
危険性の高い人や自殺未遂者の相談、治療に当たる保健・医療機関においては、
心の悩みの原因となる社会的要因に対する取組も求められることから、問題に
対応した相談窓口を紹介できるようにする必要がある。また、経済・生活問題の
相談窓口担当者も、自殺の危険を示すサインやその対応方法、支援が受けられる
外部の保健・医療機関など自殺予防の基礎知識を有していることが求められる。
また、このような連携を確保するためには、国だけでなく、地域においても民間団体も
含めた様々な分野の関係機関・団体のネットワークを確立することが重要である。
死生観は大きく作用していると思う、たとえば仏教やキリスト教では固く禁じられているし、
といっても、一向一揆や十字軍といった半自死行為は奨励されていた時代もある。
また、神道に限って言えば、罪穢れは、神が祓うという概念があり、死に方について、
優劣や軽蔑する事も無い。
また、自殺未遂者の応急手当は救急病院などであたるが、意識などが回復すれば、
即退院という事も多く、精神病院などへの転院することが救急病院側の判断にて、
行えるようにする事が、未遂者が、自死行為のやり直しを防ぐ効果があると思える。
l1979年、東京都小平市のとある民家で、精神科医の妻と母親が
刺殺されるという事件が発生した。犯人の桜庭章司はその数時間後、
池袋駅で銃刀法違反で逮捕されたが、取り調べで桜庭が語った
犯行の動機は余りにも衝撃的なものだった。桜庭は、15年前、殺害した
家族の精神科医にロボトミー手術を受け、その復讐をしたかったと
自供したのである。そして蕩々と語られはじめた桜庭の過去は余りにも
悲痛なものだった。
桜庭はそれまでスポーツライターとして働いていたが、ある日、些細な
いざこざを起こして警察に逮捕された。そして精神鑑定を受けた結果、
異常が認められたため、精神病院への強制入院を命じられたのである。
桜庭は、入院後もしばらくライターとして働き続けたが、ある日、医師が
肝臓検査を理由に桜庭に全身麻酔をかけた。そして桜庭が目を
覚ましたとき、彼はそれまでとは何かが全く変わっていた自分に気づいた。
医師は、ロボトミー手術を、本人の同意さえ得ぬまま、桜庭に施していたの
である。
そして間もなく、桜庭は医師から"術後に"手渡された手術の同意書にサイン
することを条件に退院したが、彼の人生 ― そして彼自身 ― はそれまでとは
全く変わり果ててしまった。特にライターという職業にとって、ロボトミーによって
引き起こされた感覚鈍麻は致命的だった。それから彼はライターを止め、様々な
職を転々としながら、手術を行った医師への恨みを募らせていったのである。
そして1979年9月26日、後に「ロボトミー殺人事件」と呼ばれるようになるその事件を
最後に、日本ではロボトミーという言葉はほとんど聞かれなくなる。
退院と引き換えの「同意書」それは口封じ以外の何者でもない点が最大の。
問題であり、恐怖であると私は思います。
刺殺されるという事件が発生した。犯人の桜庭章司はその数時間後、
池袋駅で銃刀法違反で逮捕されたが、取り調べで桜庭が語った
犯行の動機は余りにも衝撃的なものだった。桜庭は、15年前、殺害した
家族の精神科医にロボトミー手術を受け、その復讐をしたかったと
自供したのである。そして蕩々と語られはじめた桜庭の過去は余りにも
悲痛なものだった。
桜庭はそれまでスポーツライターとして働いていたが、ある日、些細な
いざこざを起こして警察に逮捕された。そして精神鑑定を受けた結果、
異常が認められたため、精神病院への強制入院を命じられたのである。
桜庭は、入院後もしばらくライターとして働き続けたが、ある日、医師が
肝臓検査を理由に桜庭に全身麻酔をかけた。そして桜庭が目を
覚ましたとき、彼はそれまでとは何かが全く変わっていた自分に気づいた。
医師は、ロボトミー手術を、本人の同意さえ得ぬまま、桜庭に施していたの
である。
そして間もなく、桜庭は医師から"術後に"手渡された手術の同意書にサイン
することを条件に退院したが、彼の人生 ― そして彼自身 ― はそれまでとは
全く変わり果ててしまった。特にライターという職業にとって、ロボトミーによって
引き起こされた感覚鈍麻は致命的だった。それから彼はライターを止め、様々な
職を転々としながら、手術を行った医師への恨みを募らせていったのである。
そして1979年9月26日、後に「ロボトミー殺人事件」と呼ばれるようになるその事件を
最後に、日本ではロボトミーという言葉はほとんど聞かれなくなる。
退院と引き換えの「同意書」それは口封じ以外の何者でもない点が最大の。
問題であり、恐怖であると私は思います。
応永20年、父の死により家督を継いで当主となる。室町時代に甲斐国は
関東8か国を支配する鎌倉府の管轄下に置かれていたが、鎌倉で鎌倉公方と
前関東管領の上杉氏憲(禅秀)の対立から禅秀による反乱が起こったとき、
氏憲の縁者(小舅)に当たる信満は氏憲側に与した。しかし翌年、将軍・足利義持の
命を受けた上杉房方や今川氏を中心とする幕府軍が鎌倉に攻め入ると、信満は
氏憲らと共に懸命に戦ったが敗れ、氏憲は自害して乱は鎮圧された。信満は本国に
敗走したが、やがて上杉憲宗の追討を受け、都留郡木賊山で自害する。
なお、木賊山は後に織田信長の追討を受けた第20代当主武田勝頼が自害して、
武田氏滅亡の地となる天目山の旧名であり、実は両者は同じ山中で自害した事になる。
墓所は甲州市の棲雲寺。信満の滅亡により甲斐は守護不在状況に陥り、鎌倉府と
室町将軍の争いと連動して国人による騒乱に悩まされることとなった。
皮 肉にも武田家滅亡の場所が都留郡木賊山(山梨県甲州市、旧東山梨郡大和村)
というのが、因果を感じる。勇猛果敢で猛将の武士団を形成するが、時の当主の
先行きの観測が甘かったり、縁者を大事にしすぎることで、損を受けるのも
戦乱の世の常なのか?
関東8か国を支配する鎌倉府の管轄下に置かれていたが、鎌倉で鎌倉公方と
前関東管領の上杉氏憲(禅秀)の対立から禅秀による反乱が起こったとき、
氏憲の縁者(小舅)に当たる信満は氏憲側に与した。しかし翌年、将軍・足利義持の
命を受けた上杉房方や今川氏を中心とする幕府軍が鎌倉に攻め入ると、信満は
氏憲らと共に懸命に戦ったが敗れ、氏憲は自害して乱は鎮圧された。信満は本国に
敗走したが、やがて上杉憲宗の追討を受け、都留郡木賊山で自害する。
なお、木賊山は後に織田信長の追討を受けた第20代当主武田勝頼が自害して、
武田氏滅亡の地となる天目山の旧名であり、実は両者は同じ山中で自害した事になる。
墓所は甲州市の棲雲寺。信満の滅亡により甲斐は守護不在状況に陥り、鎌倉府と
室町将軍の争いと連動して国人による騒乱に悩まされることとなった。
皮 肉にも武田家滅亡の場所が都留郡木賊山(山梨県甲州市、旧東山梨郡大和村)
というのが、因果を感じる。勇猛果敢で猛将の武士団を形成するが、時の当主の
先行きの観測が甘かったり、縁者を大事にしすぎることで、損を受けるのも
戦乱の世の常なのか?