【クラウゼヴィッツ「戦争論」を読む その20(戦闘の巧みな戦略的組み合わせ)】


 物語に登場する「天才軍師」たちは、あたかも敵を「罠にかける」かのように多方面から攻撃をかけ、強敵を翻弄します。そして、翻弄された敵は「自らが罠にかけられている」ことに恐れおののき、撤退していきます。

そのような物語は、要するに「武力」よりも強力な「謀略」が存在する、という前提に立っているのです。そこでは「戦闘そのもの」よりも「戦闘の組み合わせ方」の方によって、戦争全体の勝敗が決まるということになります。つまり、「将棋で相手を『詰み』にする」ようなやり方が真剣に検討されます。

そうして、究極的には「戦わずして勝つ」ことが推奨されるようになるのです。


クラウゼヴィッツは、このような考え方を批判します。
ただし、全否定はしていません。


ナポレオンのような卓越した将帥は、敵の複雑巧妙な戦略的組合わせのごときものには目もくれずに、ひたすら闘争そのものを求めたそして闘争の結果にはいささかの疑いをも懐かなかった・・・・・・それだから敵の戦略が、優勢な兵力をもってナポレオンの打倒に全力を傾注する闘争を念としないような場合や、諸般の巧緻な(従ってまた脆弱な)関係を基礎とするような場合には、その戦略はあたかもクモの網さながらに寸断せられた(中巻324頁)

「しかしダウンのような凡将は、かかる脆弱な戦略的関係によってすら、甚だしくその行動を抑遏されたのである」 (中巻325頁)


つまり、「巧妙な作戦を立てて、戦わずして勝つ」ということは、「敵が平凡で大して戦う気もない場合」にだけ使えるものであるということです。

「私が彼に王手をかけようとすると、彼は、私をチェスの駒もろとも打ち滅ぼそうとした」とはメッテルニヒの言葉だとされていますが、まさにこの言葉通り、強力な意志と行動力をもつ将軍にとって「詰み」など、なにほどのことでもないのです。



クラウゼヴィッツは端的に以下のように主張します。
戦術的成果に関してなんら不安のない場合にのみ、戦闘を伴わない戦略的組合わせから何ものかを期待できるのである」 (中巻325頁)



戦史をみると、「防御側が巧みな作戦で、戦わずに勝利した」というようにみえる事例がいくつもあります。そういった事例をみると、「戦闘の戦略的組合わせ」そのものになにか強い力が秘められているのかと勘違いしてしまいます。

しかし、現実には、それらは「敵に対し、より一層の摩擦を与える」ことしかできていないのです。なので、ちょっとやそっとの摩擦ならば平然と乗り越えてしまう、ナポレオンのような将軍に対しては意味が無いのです。

クラウゼヴィッツによると、「戦闘の戦略的組合わせ」によって攻撃を断念するような事例の真相は、以下の2つの観点によって解明されます。
①より高度な、政治的理由によって攻撃が中止された
②摩擦によって、攻撃者の意志が衰えた


「随所に見出される難攻不落の堅陣、戦場内に連互する昼なお暗き山塊や、戦場を貫いて滔々と流れる大河などの物恐ろしげな姿、巧みに戦闘を編合して攻撃者の戦意をたやすく挫く防御者の奇謀等は、防御者が流血的な戦闘を用いずにしばしば獲得した成果の真因ではない、真の原因は、優柔不断な攻撃者の薄弱な意志にある(中巻327頁)



また、敵が補給切れになって撤退したような場合についても、「謀略」そのものが「武力」に打ち勝ったわけではなく、あくまでこちらの「武力」が背景にあっての勝利だと述べます。

「たとえ敵軍が、糧食の欠乏というだけの理由で退却するにせよ、この退却は我が方の武力が敵軍を急迫に追い込んだ結果にほかならない。もし我が方が兵力をまったく保有していなければ、敵軍は必ずや糧食を調達する方策を講じたであろう・・・・・・この攻撃者をして退却と、またいったん獲得したところの一切のものの放棄とを余儀なくせしめるものは、実に防御者の武力に対する畏怖の念にほかならない(中巻319頁)



戦争において、「謀略」を用いて「武力」を打ち破るなどということは幻想なのです。すべての力の根源は、「武力」そのものにあります。防御者は怯えた顔で「巧みな罠」を考えたり、「難攻不落な要塞」をつくっているヒマがあるならば、なによりもまず「断固として戦う」という強力な意志を持ち、少しでも多くの兵力を集め、「この場所で戦って、この戦場で勝つ」ための準備を進めなければならないのです。



参考文献:
クラウゼヴィッツ著 篠田英雄訳「戦争論」