【クラウゼヴィッツ「戦争論」を読む その19(本戦における勝敗の決定に関する補足)】


 前回の記事で、肝心なところを書き忘れていたので補足します。


戦争とは、常に「相手」がいるものです。
「相手」の存在を無視して語られた戦争は、紛い物です。
「予備」と「撤退の決心」との関係も、当然「相手との比較」の上に成り立つものです。


「してみると実際に交戦した戦闘力が全体の小部分であり、戦闘に参加せずに勝敗の決定に影響を及ぼした予備が多数であれば、たとえ敵が新たな兵力を戦闘に投入しても、いったん決定した我が方の勝利を奪回することは、不可能だと言ってよい。それだから兵力をできるだけ経済的に使用して戦闘を遂行し、強力な予備の与える精神的効果を間然するところなく利用するような将帥と軍とが、勝利の道を確実に歩むことができるのである。近代においてはフランス軍――とりわけナポレオンに指揮されたフランス軍が、この点において優れた名手であったことを認めざるを得ない。」 (中巻39頁)


「まだまだ予備隊がいる、私はまだ全力を出してはいない」という気持ちは、自分自身に安心をもたらす以上に、相手の指揮官に対して恐怖をもたらすのです。

「敵はまだ予備隊を隠し持っているのではないか・・・・・・?」という疑念を抱けば、たとえ目の前の状況がわずかばかり自分に有利であったとしても、積極的な行動に出ることができるものではありません。この場合、敵が本当に予備隊を保有しているのかどうかは問題ではありません。敵の指揮官の態度や部隊の動きがいかにも余裕たっぷりであったがために、「まだ予備隊をもっている」と誤認した・・・・・・それでも、そのような疑念を抱いた時点で自分の行動は影響を受けずにはいられないのです。

その意味では、虚勢を張ることも立派な戦い方です。

虚勢だろうと、それによって相手の指揮官が撤退を決心してしまえば、こちらは追撃戦を開始することができます。その時点で、虚勢は現実の優勢となります。微妙な精神バランスの上に成り立つ決戦の場では、ウソも本当になるのです。



「本戦における勝敗の決定」を、一言で表すとしたら、以下のようになるでしょう。

「限界の見えた人間ほど、弱いものはない」



どれだけボコボコに殴られていても、「こいつは、まだ何か隠し持っているのか?」と相手に思わせ、「自分にはまだ、やれることがある」と思っているうちは大丈夫です。しかし逆に、相手をぎりぎりまで追い詰めていたとしても、ふと「自分には、もうこれ以上のことはできないのではないか・・・・・・?」という声が聞こえ、相手に「こいつ、さっきから同じことしかやってないよな」と思わせてしまったら、顔の血の気が一気に引いて、自分が取り返しのつかないところにきてしまったことに気づくでしょう。



参考文献:
クラウゼヴィッツ著 篠田英雄訳「戦争論」