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ある日、看護師が私のスマートフォンを返してくれた。

入院以来、初めて触る私のスマートフォン。

 

ただ、ずっと触れるわけではなく、昼間だけ使わせてくれるそうだ。

昼間だけな理由は説明してくれないが、なんとなく分かるような気がする。

とりあえず、返してくれるだけで嬉しい。


想像通り、スマートフォンは元通り扱えるわけではなかった。

まず、自分のスマートフォンなのに、ロックを解除するパスワードが思い出せない。

ただ、その点はすぐに解決した。看護師がスマートフォンカバーの中に、パスワードの紙が入っていると教えてくれた。

見てみると、確かに紙が入っていて、ロックを解除する方法が描かれている。

私が描いたわけではない。

誰にも教えていないはずだが、誰かがこのパスワードを知っていたのだろうか。


看護師は、この病室のWi-Fiパスワードも設定してくれた。

病院で患者が使えるWi-Fiがあるなんて、聞いたこともない。

きっと、可哀想な私に、職員用のパスワードを設定してくれたのだろう。


スマートフォンの操作は、扱う方法を思い出すことや、一時まったく動かせなかった指を動かすことについて、若干苦労したが、なんとか扱える。


スマートフォンに触れるようになると、今が幻覚や夢ではなく、現実なのだと確信し始めた。

いつからなのか分からないが、私の眼は開いていた。

それなのに、今ようやく目覚めたような気持ちだ。

しかし、何故そんなことになったのか、一切分からない。

毎年の健康診断でも、ほぼ何の異常もなかった。

健康診断といえば、職場だ。

今の私は、本当に職場に行っておらず、入院してベッドに寝ている。

会社に行っていない状況は、上司たちはどう判断しているのだろう。


スマートフォンを開くと、トップ画面に日付が表示されている。

今は2020年4月なのか。

今年の年始の記憶は覚えている。

でも、それ以降のことはよく覚えていない。


少し気になることがある。

スマートフォンの色が、一つ前の物に感じる。

私は前回スマートフォンの買い替えたとき、同じ機種の色違いを選んだ。

黒から藍色。妻は勘違いして、その古い方を渡してくれたようだ。

失語症で上手く話せないが、看護師に必死に伝えてみると、それしか受け取ってないと言われた。

如何にも妻らしいミスだ。

しょうがない奴だ。


このスマートフォン、扱えるとは思ったが、自分で使っていた感覚が薄い。

例えば、画面の文字サイズや明るさを変更する機能は、どうすれば行えるのか、なかなか分からない。

しばらく触っていると、歯車模様の「設定」がそれだと分かった。

こんなことに悩んだ記憶は、まったくない。

私は無意識に理解していたのだろうか。

今の私にとっては、異世界に飛ばされたような気分だ。

 

それほど詳しい方ではないが、一応情報工学を学んで就職したんだ。

それによって、今の職に在りつけていた。

こんな知性の私が、会社に戻れるのだろうか。


だんだんイライラしてきて、スマートフォンの各種アプリを片っ端から消し始めた。

毎日使っていたFacebookやTwitter、愛用していたマンガアプリも全部消した。

だって、文字情報なんて、今はもう何が書かれているのかも分からない。

これまでの人生が、すべて無駄になった。

もう生きている意味まで無くなってしまった。

バカにしやがって。

考えれば考えるほど死にたくなる。


アプリを消していると、LINEアプリを見つけた。

開くと、妻が私にメッセージを送っていた。

長男の入学式の写真だった。


そうか、長男は今月から小学生になったんだもんな。

私も嬉しい。

……。

いや、それ以上に悔しい。

長男を祝ってあげられない。

その感情が、大きく打ち寄せた。

普段出ない涙も、止めどなく溢れ出た。


妻と話したい。

LINEの通話ボタンを押した。

しかし、妻は出ない。

よし、メッセージを送ろう。

体勢的にもスマートフォンを触ることが難しいし、指も上手く動かせない。

何度も失敗しながら、指を動かしてコメントを送った。


「送ってくれた入学のメッセージ、この時の私は目覚めてなかった。だから申し訳ないと思って」


少しして、妻から返信が届いた。

喜んでくれているようだ。

その後、ビデオ通話もした。

私は妻に、「北斗の拳のリンみたいに、声が出なかったんだ。今は妙な器械で声が出るようになった」と言った。

会話はこれまでと大きく違うが、これは夢ではない。


通話が終わった後、妻からはキーボードやイヤフォンが欲しいかというメッセージが届いた。
私は「スマホを見るのは目が疲れる。キーボードなら、押すだけで打てる」と送った。

送った文章は、妻に通じているだろうか。

 

すると、妻は私に明るいスタンプを送ってくれた。

私の意思は伝わっていなさそうだ。

だが、まずはこれで充分だ。


スマートフォンと手にして数日後、画面にエラーが表示されるようになった。

なんのエラーなのかさっぱり分からない。

やはりこれは、私の最新のスマートフォンではなく、一つ前の物なのだろう。

一度再起動してみようと思ったが、再起動ってスマートフォンにもあるんだっけ? 

そんな方法、全然覚えていない。

たぶんないんだろう。

 

仕方ない、充電が0%になるまで待たなければならないのか。

でも、もしかしたら再起動しなくなるかもしれない。

そしたら、また連絡手段がなくなってしまう。

どうしよう。

……。

ええいままよ! 

やってしまおう!


少しでも早く充電が消耗するよう、ずっと画面を付けるようにしたが、いつまで経っても切れない。

2日後、ようやく充電が切れた。

看護師にスマートフォンを渡し、充電してほしいと伝えた。

翌朝、充電されたスマートフォンを返してもらい、操作方法に戸惑いながら電源を付けた。

さぁ、付くだろうか。

 

……おおっ!

 付いた! 

エラーも出ない。

良かったー! 

これで妻とも連絡が取れる。


ん? 

でもよく考えると、LINEは機種を変更すると、対応しなければ繋がらないはずだが……。

じゃあ、このスマートフォンが、新しい方か? 

んん、よく分からない。


そうだ、スマートフォンで人の名前を思い出そう。

まずは妻や息子たち。

しばらく必死に思い出そうとしていると、なんとか思い出せた。

でも漢字が分からない。

妻に聞いてみたが、失語症の私のために、平仮名で送ってくれる。

そっちじゃなく漢字だということを、私は伝えられない。

悔しいが、もうどうにもならない。


あ、折角LINEメッセージを送れるのだ。

家族や友達にも送ろう。

送られても迷惑かもしれない。

その感覚もよく分からない。

でも、やらずに死ぬより、やって邪魔くさいと思われる方が全然マシだ。

思いついたら、即行動しよう。

 

いろんな人に伝えたい。

私がLINEの文章を書いても、きっと相手はよく分からないだろう。

よし、妻を含めたグループチャットを作って送ろう。

私は今入院しているが、生きていると。

 

正直なところ、送っている相手がどの時期に知り合った友達なのか、よく分からない。

しかし、もし相手にとって迷惑だとしても、一切叱られない。

なんだか無敵状態になったような気分だ。

ちょっと楽しいぞ。
 

 

  現在からの振り返り

良太です。

 

 自らのスマートフォンの新旧

スマートフォンが一つ古い物を渡してくれたというのは、完全に私の勘違いです。

前回持っていたスマホは藍色で、後から買ったのが黒色です。

 

↓2017年購入

 

↓2019年購入

 

それくらい混乱していたんですね。

まぁ、混迷状態だった時はもっと酷かったので、それに比べればスマートフォンを扱うほど知性を取り戻したことで、かなりの回復だと思います。

 

 妻とのLINEメッセージ

妻とのLINEメッセージは、実際にはこう書いてます。

 

【打とうと思った文章】

「入学のメッセージ、目覚めてなかったから申し訳ないと思って」

 ↓↓↓

【実際の文章】

「てよてとのメッセージ目覚けせ そつないと思って」

 

【打とうと思った文章】

「スマホを見るのは目が疲れる。キーボードは押すだけで書ける」

 ↓↓↓

【実際の文章】

「ねなで出てき成さない良ければ、お 例えま えたえ見ているときは目がきとそ攻め3」

 

直接の会話の間違いではないですが、この時の私は自分が打った文字はほぼまったく読み返せなかったんですよね。

 

 会話の出来なさ

会話について、北斗の拳がよく分かります。

私は「北斗の拳」という単語を思い出せたことが嬉しすぎて、妻にその単語だけを何度も言っていたみたいです。

当然、妻にはまったく意味不明だったそうです。

 

私自身は、つい最近まで、こんな発言をまったく忘れていたんですが、先日妻から私が「北斗の拳とか言ってて意味が分からなかった」って言われて、ようやく思い出したんですよね。

今考えると、なかなかいい経験だと思います。

 

 知合いとのLINEメッセージ

他の人とLINEを始めたことは、当時の私が思っていた通り完全に迷惑者でした。

特に、平日の昼間に、仕事の会議をしている先輩に通話したりして、完全に頭がおかしい人でした。

ホントごめんなさい。

 

相手に伝わらないかもと思って、妻を含めたグループチャットもいくつもしてました。

妻が知らない人とのグループチャットを唐突に突きつけるなんて、完全に知的障害の症状ですよね。

妻には今でも小言を言われます。

 

 

でも、入院して初めての楽しい思い出ですね。

それでは、次回からも観に来てくださいね!