こんばんは。
37歳、サラリーマン、絶賛休職中。
人間、誰でもそうだと思うが、
何かができるようになると、次の大きなモノを追い求める。
充分かどうかなど、予め決まったステータスはない。
それは、良いこととも云えるが、私は見苦しくはなりたくない。
私は、2年ほど前、脳の障害で死に掛けていた。
自分がどこにいるのかさえ分からない状態だった。
ちょうどコロナが流行った直前だったので、私のところに来ていた妻や両親が来れなくなった。
私は状況も分からず、妻や両親と会えなくなった。
さらに、自分の声も出ない状況で、自分が失語症だということすら知らなかった。
ようやく、自宅に戻ったのは、障害を受けてから6ヶ月半後。
さらに、病院にいた理由を知ったのは、障害者になり10ヶ月も後のことだ。
それまで、私の罰で、警察から毒を盛られているのかもしれないと思っていた。
ドラマなどより、遥かに可哀想な状況だ。
私は、自分に失語症があることを知らない人と、喋るのが恐かった。
相手に言葉が通じないかも知れないし、逆に相手が何を言っているのか、充分に理解できないかもしれない。
その可能性が、とても高い。
だが、去年の春頃からは、知らない店員さんに、ごく簡単なコミュニケーションを取れるようになった。
これは本当に、“新しいこと”が初めてできるようになったように思えて、嬉しかった。
取り敢えず、まずは会社で仕事を覚えて、職場の輪に加われるようになろう。
そこまでできれば、それ以上のことは必要ないだろう。
…。
だが、私だけなのか、誰でもそうなのか…。
人間という生き物は、何かができるようになると、次を追い求める。
実は最近、ちょっと“燃えない”。
あれもこれもできないのに、新しいことがないと、やる気が出ない。
先日撮った写真を乗せている。
私の気分は、この夕方の曇り空のよう。
以前のこのブログで、“Input”よりも“Output”をしたいといっていた。
つまり、相手にいわれるより、自分から行動したい。
もしかすると、私は不安な方が充実するのかもしれない。
いや、嫌なんだけれども、その方が、生きていることを実感できるように思える。
うっわぁ、これって、もはや『中毒者』だよなぁ。
ちょっと話が逸れるが、小学二年生の長男の話をしたい。
先月、長男が「何もしたくない」みたいなことを愚痴っていた。
私は、「ああ、今の私と同じようになってしまったのか…」と思い、励まそうとした。
「長男よ、よく聞いてくれ…」
「障害者になった父ちゃんも、憂鬱過ぎて、何ヶ月か前までは、死にたくなってた」
「でも最近は、お前たちと仲良くなりたいって、思うようになったよ」
「お前も諦めず、やれることは頑張ってやってみよう!」
「できないことがあれば、気にせず父ちゃんに聞いてくれッ!」
「上手く回答できんかもしれんけど。ははは」
長男は、心底ビックリしてしまい、
「ちょっ、ダメだよ!そんなこと言ったら!絶対ダメ!」
私は、気が付いた。
ああ、長男は勉強が面倒だっただけか、と…。
すまん、長男…。
でも、このエピソードを思い出していて、気が付いた。
私が何をしたら、自分に自信を持ち、息子たちにも頑張ってもらえるのか、その可能性を。