こんばんは。
37歳、サラリーマン、絶賛休職中。
今日は、少し長い。
読みたくなければ、読まなくて結構です。
『失語症』の症状は、“自分ではない人”や“親族・友人ではない人”にとって、きっとよく分からないと思う。
私だって、以前自分が『失語症』になるまで、言葉は知っていても、よく分からなかった。
むしろ、『失語症』という言葉すら、知らない人も多い。
その『失語症』の私が、割りと“書く”ことだけはできるので、ここに書きたい。
一般人は誰でも、“聴く”、“読む”、“書く”、“話す”ことができるのが普通だ。
その脳の働きの一部が壊れて、“できなくなった人”を『失語症』と呼ぶ。
私の場合も、こうして書くことは、比較的できるが、それでもちょっと長いと意味が分からなくなる。
なので、ワザと短文で一文を終わらせるようにしている。
元々理系なので、短い文で必要なことを書くのが仕事だった。
その意味では助かった気もする。
私の『失語症』とは、後天的な障害だ。
(【後天的】:生まれた後の症状)
『ウェルニッケ野』の『失語症』で、(たぶん)Outputが比較的しやすいタイプ。
(他人に通じる訳ではない)
私の場合、“書く”ことは割とできるのだが、自分で書いた文章を、自分で“読む”ことさえ難しい。
さらには、『ウェルニッケ野』での『失語症』は、身体障害がないことがほとんどらしい。
なのに、私は杖がないと転ぶし、自分で立ち上がることさえ難しい。
もし私が『失語症』という“病気持ち”でなければ、このブログの記事を書くことなど、できる訳がない。
今、書けている文章が、今後も変わらず書けるかなど、保証もない。
むしろ、言葉の使い方は、今後どんどん忘れていってしまうだろうと思っている。
そもそも、平仮名さえ云えないことも多い。
例えば、「ふ」や「た」という文字さえ読めないことも少なくない。
文字の形は分かっていても、音が分からない。
こんなこと、生まれて覚えているうちで、そんなことは全然なかった。
ちなみに、自分の名前が「りょうた」だと思い出すことによって、なんとか「た」の読み方が分かるケースが少なくない。
「それで良かった」というより、「それまで分からない」という、個人的には絶望的な状況だ。
どうやら、私は自分自身を説明するときに、必要なことを漏らすことが多いようだ。
以前、自分が失語症だということは知ってはいたが、その重大さに、今になってようやく気付いてきた。
例えば、先日こんなことがあった。
LINEで知り合いを含めた“グループ”(スマホの多人数チャット)で、直接喋ったことのない初めて知り合う人たちに向けて、自己紹介をしていた。
問題は、私が何故が自己紹介をしているのか、他の人に伝わっていなかった。
他の人には、私が何を言っているのか分からなかった。
私と以前から仲良くしてくれている人は、「何故“初めまして!”なの?」と、混乱させてしまった。
そういう、他人からすればチンプンカンプンな会話が、『失語症』というモノだ。
もしかしたら、私の『記憶障害』や『注意障害』も絡み、混ざり合っているのかもしれない。
以前にも書いたかもしれないが、『高次脳機能障害』とは、説明がしやすいように『○○障害』などと、“名前”を付けたモノだと思っている。
つまり、「『失語症』だからコウだ!」みたいな、“言葉”と“脳の現象”を直接紐付けられるモノではないと、私は思っている。
脳の障害の『失語症』というモノは、当たり前なのだが、“時間が経ったら元通りに戻る”訳ではない。
だが、私の場合、キャパシティが小さくなってしまったせいなのか、最近は家族や知り合いとの会話や、テレビを観たりしていると、少し話が分かるように感じて、どうしても自分が『失語症』という“病気持ち”であることを忘れてしまう。
「あれ?言いたいことが、何故か相手に伝わらないぞ?」と考えて、すぐに「ああ、私はあの『失語症』だったか…」
そのたびに、一々、初めてのようにガッカリする。
でも、逆にいうと、それだけ私の『失語症』が良くなってきたのかもしれない。
去年2月から、こうしてブログを書けることになり、私にとっては本当に助かったと思う。
自分で文章を書くことによって、自分の思いが、初めて形になる。
自分でも全く想像もしていない言葉なのに、自分の指でキーボードを叩き、勝手に文字が出て来る。
逆にいうと、意識してしまうと、パソコンで平仮名をローマ字綴りで書くことさえ、全然できないことが多い。
何故か書けることは、有り難い。
ところが、最近数ヶ月ほど、疑問を感じ始めている。
自分が喋ったり書いたりしている言葉は、自分の“経験”で脳の中に沁み込んでいた言葉が、自動的に出て来ているだけで、 “新しいこと”はできないのではないのか、ということ。
私は、自分の『失語症』について、次のようなことを感じている。
それは、朝に自分の書いた文章が、昼過ぎに見ると、全く自分が書いたように思えない、ということ。
他人が書いたように思えるほどに。
いや、それ以前に、誰にも読めない言葉なことまである。
自分が書いた言葉が、自分で書いたように思えない。
それは、相当にツラい事象だ。
だって、
半日前の自分が、自分だと思えないのだから。
“違う人”になったように思える。
私は、幼稚園の頃から、割と言葉を使うのは上手だったと思う。
職場でも、誰にも言ってはいないが、ちょっと自慢だった。
だが、もはや今は、息子にも言えない。
このブログを見ている健常者の人たちも、よーく考えて欲しい。
『失語症』がどれだけショッキングなことなのか。
色々と愚痴りたいことが多くなったので、残りは次のブログ記事に書こう。
今日知った、私の左半身の症状の謎を。
