大太鼓(おおだいこ)としてのクライマックス
オーケストラは、バランスを抜きには成立しない。大太鼓が楽曲中一度しかないからといって、自分のクライマックスだと張り切ってしまえばどうか。
観客が期待し、思い描いていた全体像はガラガラと崩れ、良く解らなくなり、やがて興味を失うだろう。
その音はもちろん悪目立ちするのだが、それを指揮者は(自分のイメージに確固たる自信がなければ)指摘できない。
かれらは心の奥底で、常に自分のそれを超越(ちょうえつ)して欲しいという本能があるからだ。そしてそのキャパシティがあるからこそ、カリスマであるとも言える。
だがそれは、自分の小さなイメージに封殺(ふうさつ)することでは決してない。創造は限られたフィールドの中で、最大限にのたうち回ることで産まれることもある。
ホームラン競争が、野球を超えるときは永遠にやって来ないのだから。
観客が期待し、思い描いていた全体像はガラガラと崩れ、良く解らなくなり、やがて興味を失うだろう。
その音はもちろん悪目立ちするのだが、それを指揮者は(自分のイメージに確固たる自信がなければ)指摘できない。
かれらは心の奥底で、常に自分のそれを超越(ちょうえつ)して欲しいという本能があるからだ。そしてそのキャパシティがあるからこそ、カリスマであるとも言える。
だがそれは、自分の小さなイメージに封殺(ふうさつ)することでは決してない。創造は限られたフィールドの中で、最大限にのたうち回ることで産まれることもある。
ホームラン競争が、野球を超えるときは永遠にやって来ないのだから。