大太鼓(おおだいこ)としてのクライマックス | 渡部遼介オフィシャルブログ「Ryosuke’ Note」powered by アメブロ

大太鼓(おおだいこ)としてのクライマックス

オーケストラは、バランスを抜きには成立しない。大太鼓が楽曲中一度しかないからといって、自分のクライマックスだと張り切ってしまえばどうか。

観客が期待し、思い描いていた全体像はガラガラと崩れ、良く解らなくなり、やがて興味を失うだろう。

その音はもちろん悪目立ちするのだが、それを指揮者は(自分のイメージに確固たる自信がなければ)指摘できない。
かれらは心の奥底で、常に自分のそれを超越(ちょうえつ)して欲しいという本能があるからだ。そしてそのキャパシティがあるからこそ、カリスマであるとも言える。

だがそれは、自分の小さなイメージに封殺(ふうさつ)することでは決してない。創造は限られたフィールドの中で、最大限にのたうち回ることで産まれることもある。

ホームラン競争が、野球を超えるときは永遠にやって来ないのだから。