私の住んでいる、愚狂庵は明治初年まで建国寺というお寺でした。
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寺伝によると、神亀年間(
実際は、文和三年(1354)から二十三年の間、神宮祭主を勤めた大中臣忠直卿が先祖を祀る氏寺として創建したようです。
応永年間(1394-1428)に足利将軍義持が、内宮に一切経を寄進することを発願、その奉納先として選ばれたのが建国寺でした。
応永三十三年(1426)六月七日、幕府管領畠山満家が内宮禰宜の荒木田経博に一切経(大蔵経)を建国寺に奉納するように、と文書を送ります。そして翌二月に一切経が寺に納められました。これをもって建国寺は足利将軍家の祈願所になったのでしょう。次代将軍義教は経蔵を建立し、また神宮も神領の一部を寺領として分け与え、寺を庇護しました。
当時の住持は徳侍者という禅僧と伝わっており、神路山の奥に籠っていたところ、前述の荒木田経博の夢に現れ、寺に招かれたといいます。
長享三年(1489)六月二十二日、寺は内宮外宮間の抗争、宇治山田合戦に巻き込まれ、前述の一切経は経蔵と共に焼失してしまいます。その後、経蔵の再建が試みられますがうまくいかなかったようです。
大永二年(1522)九月に連歌師の宗長が内宮の建国寺を訪れ、そのあと西行谷の神照寺へお参りした、と日記に記しています。
宝永七年(
正徳三年(1713)に臨済禅の中興の祖、白隠禅師が虚堂会に出席するため伊勢の建国寺を訪れたと「白隠禅師年譜」にあります。
その後、明治の廃仏毀釈の波に飲まれ廃寺となりました。
今の内宮周辺にはお寺は一つもありませんが、江戸期までは西行法師が庵を構えた伝説のある前掲の神照寺、遷宮復活に尽力した慶光院、蒙古襲来の時に異国調伏のために建立された法楽舎などを筆頭に二十ほどの寺がありました。しかしこれらの寺は全て明治の廃仏運動によって破却されました。
お払い町は変遷を繰り返し、現在の形になっています。その中で昔から変わっていないものは人々の賑わいでしょうか。
参考資料:『宇治山田市史』『伊勢市史 第二巻 中世編』『宇治の郷の図 解説』『瑞垣 239号』
愚狂庵本堂。
禅宗の祖、達磨大師(378?~528?)をおまつりしています。
白隠慧鶴禅師。(1685~1768年)
庵内のお稲荷さん。少し前までは建国寺稲荷が敷地に建っていました。



