三日目の朝、今日は9時にレンタカーを受け取り、9時半には出発の予定である。
携帯のアラームはかけてあった。アラームを止めた記憶はある。
はっと目を覚ますと、なんと時間は9時を回っていた。
体はダルく、若干頭が痛い。どうやら二日酔いの様だ。
しかし、飛び起きた私は、身支度を済ませリビングに向かう。
元板さんがリビングで寝っ転がっていた。
慌てて謝る私に、
「いいよ~俺もいま起きたとこだから」と。
良かった、時間に厳しい人じゃなくてと一安心。
ただ、レンタカー屋は遠く、一度那覇空港に戻り、そこから送迎のバスで向かうのだ。
出発は10時頃になることを伝えると、元板さんはその間に支度しとくよと、穏やかであった。
ハーフさんはもう出掛けていたようだった。
慌てて出た外は、前日同様よく晴れており、かなり暑かった。モノレールの駅に着いたときには、やっぱり汗だくであった。
二日酔いのボーッとした頭にこの暑さはなかなか辛かったが、今日は一人ではないし、前日行けなかった海軍司令部にも行きたいし、他にも回りたいところが沢山あるので、ぐだぐだしている余裕は無かった。
那覇空港に着き、送迎のバスを待つ。待っている間も二日酔いはあったが、汗をかいたおかげか、レンタカー屋に着く頃には二日酔いはすっかり抜けていた。
もしかしたら若さもあったのかも知れない。まだ数年前の事だが、二十歳そこそこと二十代半ばでこんなにも飲んだ次の日が違うのかと驚いている所である。
レンタカー屋に向かう道中、かなり混んでおり、思っていた時間を過ぎていた。貸し出しもすぐ終わるかと思ったが、他の観光客が多く、20分ほど待たされてしまった。
車を受け取り、渋滞する道を急いで宿へと戻る。
結局出発は10時半頃になってしまった。
待っていた元板さんを乗せ、戦跡巡り二人旅が始まった。
元板さんは全て私に任せるとの事だったので、まず前日行けなかった海軍司令部へと目指した。
やはり道は混んでいたが、30分ほどで到着することが出来た。
海軍司令部壕の入り口は丘の上にあり、南部一帯を見渡すことが出来る。そこから地中に迷路のような壕が掘ってあるのだ。
ここが太平洋戦争最大の激戦を繰り広げた、沖縄戦の日本軍の中心である。
本土の防波堤とされた沖縄の指揮を執った場所である。
丘の一番高いところに、大きな沖縄戦の犠牲者を弔う慰霊碑が建っている。
その近くに車を止め、建物に入る前に二人で一服を済ます。
建物に入ると、いきなり階段であった。その階段を下ると、チケット売り場と司令部壕の入り口となっている。
そこでチケットを購入し、壕の中へと進む。
更に階段へと進むと、近代的な建物がいきなり岩むき出しの壁へと変わる。
その壁にはミノや、ツルハシの跡が残っている。
この壕は米軍が攻めてきて、急遽人力によって掘られたそうだ。
壕の中は地下であるからヒヤッとしていたが、所々水が滲み出しており、湿気が凄かった。そして何故か陰鬱な雰囲気を持っている。
地面は滲み出した水と、岩の成分でなのか滑りやすくなっている。壁もテカテカと反射していた。
奥に向かって下るようにトンネルが掘られており、その脇に間隔を開けて部屋のように掘られている場所が出てきた。
実際にそこを部屋として使用していたそうだ。
通信室や救護室、仮眠室や兵隊詰所など。
進んでいくと、何故か私と元板さん二人揃ってなんか嫌な部屋だねと、話していた部屋に入ると、確か司令室だか作戦室だったかであり、壁には無数の小さい穴と、その周りの壁に何か削られたような跡があった。
その部屋の説明を読むと、沖縄戦の末期に、敗北を悟った将校がその部屋で、手榴弾によって自害したそうである。無数の小さい穴と削れた壁は、手榴弾の爆発の跡であった。
その跡を眺めながら、二人は無言にならざるを得なかった。
他にも刀やピストルによる自害した部屋もあったが、何故かここの部屋だけ特に異様に二人には感じた。
一部崩落により見ることが出来ない場所があったが、見学できるところは全て見て、二人は海軍司令部壕を出た。
外は壕内より湿気は無かったが、やっぱりかなり暑かった。
司令部壕を出発し、次に目指したのは南部の先端、喜屋武岬である。読み方はきゃんみさき。
北海道と同じで沖縄は読み方がよくわからない。まだ喜屋武はいいとしても、南風原は"はえばる"である。全く漢字からは想像が出来ない。
そんな喜屋武岬は、沖縄戦による悲劇の地であった。
沖縄本島の中腹から攻めてきた米軍は、北部を制圧し、日本軍および島民を南部へと追い詰めていった。
首里も制圧され、海軍司令部も陥落。
間違った教育により、米軍の捕虜となると、女性は凌辱され、男性は拷問を受けると信じ込んでいた沖縄島民や、日本軍兵士は、間違った教えを抱きながら、生きて恥を晒すなら皇国に殉じて尊い死を、と皆この南端の喜屋武岬から
「天皇陛下、万歳!」
と叫びながら身を投げたそうだ。
沖縄版『バンザイクリフ』である。
砂利道を進み、サトウキビ畑の間を進んでいくと、小さく開けた場所が出てくる。
前はひたすら続く水平線に、透き通った青い海。空も負けじと真っ青であった。
左斜め前には白い灯台、右側には喜屋武岬の悲劇を伝える慰霊碑とモニュメント。
崖の下を覗くとゴツゴツとした磯に、海底の地形がわかるほどの透明な海の水。
そして周りは太陽の光を浴びて輝く緑たち。
風光明媚とはこのことか、と言えるほど美しい場所であった。
しかし、この喜屋武岬が悲劇の舞台になった当時は、崖の下の磯には人の死体が無数に漂い、透き通った綺麗な海は、真っ赤に染まっていたという。
ほんとうにここでそんなことがあったのか?と疑いたくなるほど綺麗な場所であるが、だからこそ伝えていかなければいけない歴史だと思う。二度とこのような素晴らしい場所を悲惨の血に染めることが無いように。
慰霊碑に手を合わせ、二人は喜屋武岬を後にした。
次に向かったのは、沖縄の戦争遺跡と言えば第一に出てくるであろう、ひめゆりの塔である。
私自身、ひめゆりの塔の物語はよく知らなかった。だが、ここを外すわけには行かないだろう。言うなれば、名古屋城に行って下を向いたまま金のシャチホコを見ないようにするようなものである。
ひめゆりの塔に着くと、沢山の観光バスと人で溢れていた。さすが最もポピュラーな沖縄観光スポットである。しかし、このひめゆりの塔をちゃんと見学すると、観光と呼んではいけないと、思う気持ちになるのだ。
ひめゆりの塔の手前に多くの大きなガジュマルがあった。これがガジュマルなのか!と一人感動していた。
ガジュマルは歩く木と言われ、枝からたくさん長く垂れる気根を地へと伸ばし、そこから根を張り、やがて幹となり、元の幹は朽ちていくそうだ。長い年月をかけ、ガジュマルは歩いているのだ。
そんなガジュマルを見つつ、人だかりの中へ進むと、柵に囲まれた向こうに小さい白い石の柱が建っていた。
それがひめゆりの塔である。
前から小さい小さいとは聞いていたが、ほんとに小さかった。横の慰霊碑をひめゆりの塔と勘違いするのは無理もない。
そのひめゆりの塔の後ろから地中にかけて防空壕になっているようだ。その壕も実際ひめゆり隊によって病院壕として使われていたという。
ひめゆりの塔に手を合わせ、資料館へと向かう。
資料館には当時の沖縄戦の様子や経過などの紹介や、ひめゆり隊全員の名前、実際に使われていた医療器具などが展示されていた。
また、ひめゆり隊の生存者のおばあさんが当時の事を話している映像の上映室などもあった。
これらの資料だけでもかなりショックだったが、最後の展示にひめゆり隊生存者全員の当時の様子を語った文集がある。その文集の内容は、担ぎ込まれてくる負傷者やその看護の様子であったり、追い詰められた日本兵の様子であったり、米軍の攻撃に怯える心情であったり、死に行く人や友との別れを惜しみ悲しむ内容など、実際に起こり、ひめゆり隊の方が感じたことが、ありのままその文集には詰まっていた。
私は一つ一つ噛み締めるように読んでいった。
十代の若い女学生の声に出せぬ苦しみと恐怖がひしひしと伝わってくるようだった。
日本人、いや世界の人達はこの文集を読むべきだと思った。戦争は悲惨だと言っても、実際に体験していない私達には、本当の戦争の悲惨さを知らない。この文集には本当の悲惨さが収められていた。
正直、資料館を出た後は気分が沈む。それもそのはずである。人々の苦しみの過去に触れて楽しいと言う奴は、犯罪者予備軍だろう。
平和な世に感謝しつつ、ひめゆりの塔から次の目的地へと出発した。
ひめゆりの塔近くで昼食を取ったのだが、ひめゆりのショックが大きかったのか、どこで何を食べたのか思い出せない。
それほどの衝撃はあったが、行けて良かったと凄く思う。
この時点で確か2時前位だったと思う。
今日の全行程踏破が、なかなか厳しくなってきた。朝の寝坊が響いているようだ。