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「竜馬がゆく」を読んで、桂浜の龍馬像が観たくなって広島から来た青年に、上の写真を撮りに行ったときに会いました。青年は、像背後の銘板の「高知県青年建立」が気になったようで、私が知っていることを話しました。

既出の事柄もありますが、そのときのウンチクをまとめてみました。


1.龍馬像の作者
 竜馬像の作者は、「本山白雲」という土佐出身の造形作家です。本山白雲は、高村光雲の弟子です。

2.龍馬像建立のいきさつ
 龍馬像建立には、高知県や国のお金が一切使われていません。昭和のはじめ、高知県の青年有志が中心になって、全国で募金を募り、日本中の龍馬を愛する人の浄財で建てられました。三菱を筆頭に、当時の財界から寄付の申し出があったそうですが、すべてお断りをして、龍馬の遺志を継ごうと、苦労して募金のみで建てられました。像の台座裏には、「高知県青年建立」と誇らしげに碑板が埋め込まれています。なお、台座は建立から2度改修工事が行われましたが、すべて募金で賄われています。像の定期清掃も電力会社のボランティアで行われています。
寄付を断った例外がありました。皇室の秩父宮家からの200円の御下賜金はありがたく戴いています。(坂本龍馬記念館学芸員に後日、教えていただきました)

3.除幕式に軍艦が祝砲を捧げる
 昭和3年、銅像除幕式にあわせて、桂浜沖に海軍の軍艦が来航し、祝砲を鳴らしました。日本海軍の祖としての、表敬の砲音(報恩)に、除幕式参加者一同から、拍手と歓声が沸き起こったそうです。

4.竜馬像はどこを向いているか
 桂浜を訪れた人は、東南東を向く龍馬像が見つめる先が気になるようです。「太平洋の向こうを見ている」、「盟友の中岡慎太郎像と向かい合っている」、などと言われていますが、建立の高知県青年の一人、入交好保氏が晩年に、「龍馬は船と海が好きじゃったきに、浦戸湾を出入りする船を毎日眺めれるように、湾のすこし沖に目線を向けて作ってもろうた。」と知人に語ったと又聞きしました。納得の言葉です。


5.龍馬という名前
龍馬自身は、一度も「竜馬」を使っていません。有名な薩長同盟の裏書にも「坂本 龍」と朱筆しています。正しい漢字は龍馬です。司馬さんの「竜馬がゆく」は、少年にも読んでもらいたいということで、略字体の竜を使ったのが一般化したようです。
読み方は、「りょうま」が正しく、勝海舟(氷川清話)や木戸孝允(手紙)などに「良馬」という漢字が当てられています。高知県では「りゅうま」という呼び方も昭和40年ごろまでは一般的で、「りゅうま」という呼び方は明治16年に発行された龍馬の小説第一号「汗血千里の駒(かんけつせんりのこま)」坂崎紫瀾(さかざきしらん)に、紫瀾がふりがなしたことから、「りゅうま」と呼ばれるようになりました。高知県でも、昭和40年前後のNHKドラマ「竜馬がゆく」にあわせて、呼称を「りょうま」に統一しました。

龍馬が生まれたのは、1835(天保6)年。その年の干支は、乙未(きのとひつじ)。『ひつじ年』です。辰でも馬でもなく、干支とは関係ない名前です。当時の私の先祖にも、瀧馬・安馬という名前が残っています。「馬」を名前に付けるのは、当時の流行だったのかもしれませんね。
生まれたばかりの龍馬の背中に、馬のたてがみの様な長い毛がたくさん生えていたのは有名な話です。天から使わされた証だったのかもと思いたくなりますね。


高知県では、2008年3月1日から2009年2月1日まで、「花・人・土佐であい博」を開催します。北川村「モネの庭」や五台山「牧野植物園」などには、いろんな花が奇麗に咲き乱れます。ぜひ、春の土佐路にお越しください。


※フォトコーナーに『龍馬画像集』をUPしました。コピーできないので、龍馬画像の記事をアップします。