藺相如は趙の恵文王に仕えた。

「キングダム」では三大天の一人として紹介されているが、私の読んだ事のある戦国時代の文献で三大天という名称は聞いたことがないから、あるいは原先生の想像の中のカテゴライズなのかもしれない。

とはいえ彼と廉頗(レンバ)、趙奢(ちょうしゃ)が恵文王に仕えた頃は趙国が全盛期の時期であるから三大天という表現もあながち間違ってはいない。

藺相如はは卑賎の出でありながらその弁知と類稀なる胆力で恵文王の信頼を得て上卿まで上り詰めた。上卿は日本でいう右大臣のようなもので、臣下の中では筆頭といっても良い。
先に挙げた趙奢も元は監獄の獄卒の身分から将軍に上り詰めたのだから恵文王の人材登用の巧妙さが見える。
そもそも、相如の身分からそのような高い地位まで登ることは普通であれば不可能である。
しかし趙国の情勢の難しさが奇蹟を起こした。

当時趙国は和氏の璧(かしのへき)と呼ばれる天下の名宝を所持していた。
秦国の昭王はこの和氏の璧を得るために趙国の恵文王に
「秦の15の城と趙の和氏の璧を交換しよう」
という書状を送った。
秦国の昭王がこの和氏の璧を欲しがったのは収集の趣味のためではない。ここでは詳しくは省くが、この和氏の璧を得ることで楚国を攻める大義名分が立つのだ。
恵文王は悩んだ。
というのも秦国は約束を守った試しがなく、和氏の璧を渡しても15城を得られるとは思わない。しかしこの書状を無視すれば秦国から攻められるかもしれないのだ。
恵文王は臣下に
「誰か秦国の使者に向かうものはおらんか」
と問うた。しかし誰も秦国へは行きたがらない。
というのも秦国は以前、楚国の王を招いておきながら秦国内で監禁し、遂には悶死させたことがあり、秦国へ使者にいくことは非常に危険であった。
今回のような難局であればなおさら危険で、秦王を怒らせずに恵文王の期待にも応えられるような素晴らしい策を持つものも、そこまで胆力に優れた者もいなかった。
すると宦官の1人が自分の臣下の藺相如は胆知に優れており、必ずこの難局を乗り切れるだろうと推薦した。
恵文王は藺相如という者の名前も聞いたことがないが彼との問答の中で彼を登用することを決めた。

藺相如は秦国に向かった。
秦国に着いた相如は秦王に謁見し、恭しく和氏の璧をささげた。
その璧を受け取った秦王は喜びながら侍女や側近たちにまわせてみせた。秦王の側近たちはそろって万歳と唱えた。
この様子を受けて、相如は秦国は趙に城を渡す気はない。
と洞察した。
普通、城との交換条件であれば側近がすぐに地図と戸籍をそろえて相手に提出するものだ。秦王の前ということでそのような手続きは行わなくてもすぐに15城を明示すべきなのである。
しかし秦王と側近は相如を見ることもなく話し合っている。

この行動に誠意を感じなかった相如は秦王に進み寄って
「璧にキズがあります。それを王にお示ししましょう。」
といい、璧を受け取った。

直後、相如は凄まじい形相で璧を持ったままで後ろの柱によりかかった。
彼は鋭く秦王を責めた。
「趙においては、秦国は貪欲であり、璧を渡してもきっと城を得ることはできない、という意見が盛んで秦に璧をあたえない、と議決された。しかし、私は布衣の交わりの中でも欺きあうことはしない、大国のあいだではなおさらである、と恵文王に意見し、恵文王もこの意見に賛同したために私に璧をもたせて送り出した。しかし私がここに至った時の秦王のご様子はなんとしたことか。礼節に欠けている上に傲りを感じる。
私は趙王に城を与える意思がないと感じたため、璧を取り返した。秦王が私を殺そうとするならば私の頭を璧もろとも柱にぶつけてバラバラに砕いて見せよう。」
璧を持ち上げた相如は柱を睨んで打ち付けようとした。この迫力に秦国の者は誰も身動きすらとれず、かろうじて秦王が
「待て、、、よく、分かった。」
とだけ口を動かした。
璧を壊されてはたまったものではない。
秦王は直ちに待遇を改め、地図を調べてから、ここから先の15城を与えるであろう、と指した。

嘘だな。

と相如は考えた。そこで、敢えて恭しく
「和氏の璧は天下にきこえた名宝です。この名宝を得る者は5日間身を清めて、宮廷にて盛儀を行うのが礼でございます。これが終わった後に和氏の璧はお渡しいたします。」
と、述べた。

これに合意した秦王は相如に客舎を与えて待たせた。
相如はすぐに従者に璧を持たせて間道を使って逃した。果たして璧は無事に趙国に帰国した。

5日後、相如は身を清めた秦王に謁見した。むろん、死を覚悟しての謁見であった。
相如は
「秦は建国して400年余りになりますが、いまだかつて約束を堅く守ったことはありません。それゆえ私は王に欺かれて使命を全うできない事を恐れました。そこで人に璧を持たせて帰らせました。今頃璧は趙国にありましょう。改めて申すことではありませんが、秦国は強く、趙国は弱いのは明らかです。強国である秦国がまず15城を割いて趙に与えてくだされば趙は璧を留めるようなことは致しません。私は秦王を欺いたのですから、誅殺されることは覚悟しております。どうか釜茹での刑にでも処して下さい。」
と、述べた。
側近たちは相如に掴みかかって引きずり出そうとした。
しかしここで秦王は非凡な器の広さを示した。

「ここで藺相如を殺しても璧が手に入るわけではない。寧ろ秦と趙国の国交に支障が出る。それよりも彼を厚遇して、趙国に帰らせるのだ。趙国は璧1つのことで秦を欺くことはないだろう。」

といい何事もなかったかのように、相如と儀式を行い、これが終了すると帰国させた。

この行為は相如にも秦王の非凡さを感じさせたため、これ以降相如は趙国と秦国の融和に尽力する。

帰国した相如は、恵文王に褒められた。
「なんじは賢大夫である。使者となって秦王に辱められることがなかった。」
この褒詞と共に相如を上大夫とした。上大夫は大臣に等しい。
相如は趙と秦をたった一往復しただけで大臣となった。

現代でもよく使われる”完璧”の語源はこの藺相如の困難な状況から璧を完全な状態で帰した逸話から来ている。

藺相如は上大夫となったのちもいくつか有名な逸話を生んでいる。
「澠池の会」や「刎頸の交わり」と呼ばれる話がそれである。
これらはまた機会があれば紹介しよう。
趙国は恵文王の死と共に最良の時代を終える。
恵文王の死の四年後、長平の戦いにて大敗し、40万の兵を失った趙国は衰え続ける。そして李牧という最期の才能を自らの手で失ってしまった趙国は戦国七雄の中で初めに秦国に滅ぼされるのである。
藺相如の死は恐らく長平の大敗の前後であろうとされている。