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●石川雑記帳●

医学博士号を取得。製薬企業に研究職として勤務。日々の雑感を書き綴ります。

先日、同じ歳の友人(♀)に下記の記事をどう思うか?と言われた。
窮屈JAPAN (田房永子)
内容をかいつまんで書くと、現代の社会が男社会であることを批判し、その中で慎ましやかに生きる女性というのを描いている。
特に男社会の象徴的な存在として、槍玉に挙がっているのは「おじさん世代」だ。


おじさん世代を批判のターゲットとして男女の貴賤を描くのは、ある意味で的を射ている気がする。
なぜなら、最近の若者は、真偽は不明だが草食系男子と揶揄されるように弱々しい印象を与え、男女平等の精神が比較的染み付いているように感じるからだ。
つまり、おじさん世代を男女不平等の象徴として描き、若者世代を頼りないと批判するのが、最近の流行だと思う。


ただ、そうは言っても、一昔前までは明らかな男女不平等社会であったので、それは事実として受け入れなければならない。
おそらく、「窮屈JAPAN (田房永子)」に書かれているように、女性は「いさせてもらっている。」と言う意識だったのかもしれない。


僕が、前回のエントリーで取り上げた「絶望の国の幸福な若者たち」に書いてあったのだが、そもそも日本は伝統的に階級社会であったらしい。
明治時代以前は士農工商という身分制度があったが、明治以降は身分制度が廃止され、徐々に「男>女」がより鮮明になった。
(もしかしたら、もともと「男>女」だったかもしれないけど。)
士農工商時代の中心は、もちろん武士であり、商人は「その土地に住わしてもらっている。」という意識だったらしい。
ただし、もし住んでる土地が戦争に巻き込まれた場合、商人は「ちゃっちゃか逃げます!」というスタンスだったようだ。
場面は大きく異なるが、「戦争→会社」「商人→女性」と置き換えてみて欲しい。
一昔前のような男社会では、所属している会社が傾いた場合、男は「会社を潰さないように頑張る」が、女は「どっちでもいい」というスタンスが多かったんじゃなかろうか?
つまり、男社会の中にある会社の場合、男が「いさせてあげる」と思っているのか、女が「何となくそこにいる」と思っているかはわからないけど、女が主体じゃなかったことは確かだと思う。


窮屈JAPAN (田房永子)」では、「女性が主体じゃない」ことを学校や社会(電車の中)に当てはめたのだと思う。
この記事の中に書かれていることは、凄く外れているとは思わないけど、電車の中の痴漢やヒエラルキーは誇張し過ぎにもほどがある。
老若男女とわず、子供がうるさいと感じる人はうるさいと感じるだろうし、温かい目で見守る人は見守ると思う。
逆に、ここまで極端なことを書いていると、「よっぽど男に酷いことされたのかな。」と穿った見方をしてしまう。


絶望の国の幸福な若者たち/古市 憲寿

¥1,890
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僕と同世代、現在27歳の社会学者・古市憲寿氏の著書、「絶望の国の幸福な若者たち」。
この半年、僕が読んだ本の中では、最も良い本だった。
全体を占めるシニカルな感じがあり、人を選ぶかもしれない。
しかし、難しい言葉を使わない文章は非常に読みやすいし、何より統計データや過去の資料を十分に引用しているので信用が置ける。


以前、テレビ朝日「朝まで生テレビ(通称・朝生)」でこの本を元ネタに、議論を進めていくという企画が放送された。
番組の中で論者の1人が、
「古市くん(著者本人も出演中だった)、結局、この本は何を良いたいの?」
と問うた。
すると、他の論者が
「この本は、何も主張していないんですよ。現状を分析して、現代の若者はこういう感じだと示したもの。」
というニュアンスのやりとりがあった。
僕は、このやりとりを非常に鮮明に覚えていて、いざ本を読んでみたら確かにその通りなのだ。
いや、その通りということはない。
主張はしているが、「現状を大きく変える必要はない」「このまま、とりあえず生きていこう」という論調なので、朝生に出演するようなギラギラした大人には響かなかったのかもしれない。
それくらい、この本はクールなのだ。


以下に簡単なまとめを備忘録的に記しておきたい。
なるべく客観的に書いたが、僕の主観が入っている部分もあるので注意していただきたい。


この本は、第一章から第六章までの六部構成になっている。
第一章では、「若者」の定義について探っていく。
結論として「若者」とは、年代以外のものが均質化してしまった「一億総中流」と言われた時代にスタートした概念だと書いている。
もちろん、それ以前にも「若者」や「青年」という言葉で表現されることはあったが、貧富や地域性など、その他の要素が強かったとしている。
したがって、マスメディアがある程度普及し、共通の価値観が出来上がって時代に「若者」は誕生したのだ。
しかし、現在はインターネットの発達や娯楽の多様化により、ひとくくりに「若者」といっても様々な種類の若者がいるとしている。
また、人口のボリュームとしても小さいので、社会学的にも「若者論」を語ることにどれだけの意味があるのかとしている。


第二章では、「内向きな若者」という言葉について検証している。
つまり、本当に内向きなのか?ということだ。
結論からいってしまえば「微妙」ということである。
社会貢献したいと答える若者は多いが、選挙の投票率は下がっている。
海外留学は人数ベースでは減っているが、人口に占める割合では減っていない。
海外旅行に行く人数も、2000年代半ばの不況期がおおい。
特に注目すべきは、社会貢献したいと答える若者と選挙投票率の低下についてである。
筆者は、このような若者を「何かしたいけど何をしたら良いのか分からない若者」と位置づけ、「ムラムラする若者」と名付けた。
端的に世界を変えることができるはずの選挙に対し無力感を覚えており、震災ボランティアなどわかりやすい形で場所が提供されれば、率先して参加する若者たちである。
このような現象から、わかりやすい「出口」を与えれば若者たちは喜んで動き出すと筆者は結論づけている。


第三章は、若者とナショナリズムの関係についてである。
非常に面白いのは、若者は「日本」という国をインフラとして用いているだけと書いてるところだ。
たしかに、ワールドカップでは大いに熱狂するし、震災が起こればボランティアに行く。
でも、戦争が起こったら「日本から逃げる」と答える。
江戸時代の(身分が最も低い)商人が、その土地で戦争が起きたら逃げていたように、若者も日本という国を「インフラ」や「ネタ」に生活していると筆者は書いている。
それは、つまり「愛国心」とは違うのである。


第四章は、若者の社会運動について描いている。
日本にも色んな社会活動が存在するが、社会的に機能している団体はどの程度あるのだろうか?
ほとんどが彼らの閉塞感を紛らわせたり、表現活動をする場になっていると書いている。
つまり、彼らにとって社会を変革するという目的が形骸化してしまい、彼らの「居場所」となってしまっていると書いている。



第五章は、東日本大震災について書いている。
東日本大震災で多くの若者がボランティアに駆けつけたことは、彼らが日本人として主体的な立場だからなのか?とかいている。
筆者は、それを「自分以外の出来事」だからみんなが1つになれたと評している。
普段からある閉塞感を自ら打破しようとしないのに、震災などの外的要因を理由に1つになる姿は、震災がどこか他人事だからなのだとしている。


第六章は、若者を取り巻く環境を包括的に描いている。
国の財政状況は、絶望的。
若者が就職しにくい構造。
でも、幸せな時代。
周りの友人やソーシャルメディアを使用して、お手軽に自己承認欲求を満たせる時代。
なんとなく不安で、なんとなく幸せな日本。
したがって、タイトルが「絶望の国の幸福な若者たち」なのだ。



(後半、疲れてしまった。。。ごめんなさい。)


刑務所なう。/文藝春秋

¥1,050
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なんだかもの凄く読みにくくて、凄く時間がかかった。

「刑務所なう。(堀江貴文)」

この本は面白いとか面白くないとか、そういう観点ではなく、「あぁ、刑務所ってそういうところなのか。」と思う本。
時事ネタのところでは、相変わらず筆者の社会に対する鋭い視点が披露されており、興味深い。
おそらくメルマガに載せているのだろう。
一方で、この刑務所での日記を読んで心に残っていることは、

・意外と食事がおいしいらしい。
・体重が半年で20kg 程度も減ったらしい。
・人と話せないことが異常にストレスらしい。
・官は日本の季節や行事ごとに敏感らしい。
・仕事がきついらしい。

といったことだ。
意外と刑務所は、きつくないのでは?と思った反面、単調な毎日になりそうだということ。
ホリエモンの日記を読んでると、「(仮にも)犯罪者として服役しているのだから・・・」と思うこともしばしば(笑)


ただし、ホリエモンが捕まってからもライブドア事件を超える贈収賄事件や経済事件が起こっているが、彼ほど重い刑に服している(服すであろう)人がいないことは、彼にとっては非常に不公平に感じているであろう。
彼の心のうちを思うと、なかなか切ないものである。


この本の感想としては、正直、あまり面白くない。
でも、刑務所に入る予定がない僕ら(当然誰しも入る予定がないと思うが。)一般庶民としては、貴重な体験を知る良い本かもしれない。