ふと、現在自分が人生の岐路に立っておりいかに努力をするかによって、己の望む右へゆけるか、まるで望まぬ未知なる左へゆくかが決まるのではないかという自覚が現れる。
善良なる読者諸君は、そのどこまでも公平で客観的な立場から、「さすれば答えは簡単だ。努力をすればよい。なにも長くする必要はない。危機でありチャンスである今こそ、全身全霊をもって取り組めばよいのだ。人生がかかっているのだ。それくらい簡単であろう」、などとおっしゃるであろう。
その通り。まさにその通りなのである。
しかし、無理なのである。
そう。無理なのである。
なぜか。
なぜなら答えは簡単である。「努力するのが、私だから」である。
努力をせよと他人に迫るのは簡単である。それは全く正しいことであるし、いつ何時どの時代にも通用する審理である。しかし、客観的なる読者諸君はあくまで他人。その身に怠惰な生活がしみこみ、勢い日本酒が欲しくなるほどオイシイおでんのはんぺんがごとくふにゃにゃになったわが身を叩いて努力をせねばならぬのは私なのである。その努力は日々の惰眠と毎晩のアイスクリームでもはや骨か贅肉かもわからなくなった肉体を酷使し、精神は戦場を駆ける一兵卒のように切り詰められるのである。
そんな思いをするくらいであれば、望まぬとはいえ、未知なる左の道にかけてみようではないか、意外や意外、それは神の思し召しに沿うことであり、動く歩道が敷かれておるがごとく、己のまだ見ぬ才を十二分に発揮せしめる場所へいざなうのではないかと思っても無理はなかろう。
ときおり、そんな気持ちにもなるのである。