言葉にしてしまうと、とても
あっさりしてしまうかもしれないのですが、、、。

わたしは、周りの方のご心配ほどには、
悲しみの中にどっぷり、
というわけではなかったのです。

(もちろん、三日ほどはたくさん泣いて、目も顔も腫れまくってはいましたが)

子ヤギ達や、ウメちゃんや、
さくらの姉のモモもいたし、、
たくさんの応援も、、

(近くの牧場ファームサンクチュアリの
ボランティアの方が作ってくださった
トマトの精霊、さくらと、
サンクチュアリにいるトントン!
私たちが思わず笑っちゃうようにと、
笑顔のさくらです。)

そして、少し自分でも驚いたのが、
ここ数年、マインドフルネスの
実践をしていたことが
とても、大きかったのです。

悲しみの中にあっても、
疲れ切っていても、
その、いまの瞬間のなかに
幸福を感じて「よい」と許可できていたこと。

そして、死について生について、
繰り返し、繰り返し
学び、感じ、
毎月のライブ法話でも
アンフーンさんがお話ししてくださっていて、、
(亡くなった方の温もりを体感する瞑想も
今回とてもわたしを助けてくれました)


死についての感じ方が、
かなり変容していたことに
気づいたのです。

もちろん、悲しくて、今でも
かわいかったさくらの写真を見ると、
こみあげてくるものはあるのですが。

(大あくびさくら!
なんでこの写真なのよぉ〜
こみ上げるのって笑いなのー?!
ほんとに、お茶目なかわいい子でした ^ ^)






さくらが亡くなった翌朝のこと。
すこし、普通の感覚からすると不思議な体験を
しました。

その日はトマトの定植もあり、
子ヤギ達の世話もありほとんど眠れずでした。

畑から、ミルクをやるために一旦歩いて
家に帰ろうとしたとき、
土手のタンポポや桜の花びらが輝いていて。

あらゆるものが
わたしに向かって微笑んでいるように感じました。

それは、光の中に、空気に、植物に
さくらの「要素」があって、
それは輝いて、存在している感じでした。

息を呑むほどに美しく、
そのとき、こきゅうしているわたしの中に、
さくらを含む空気が流れ込んできているようにも、
感じました。



それと、一方で
その美しい世界が、わたしが色やタンポポと
認識している世界が
全て概念であって、
わたしは、りょうこというシステムを通して
「見ているんだなぁ」という感覚に
なりました。

No coming,
No going

(来るもなく
ゆくもなく)
が、リアルでしかない、という感覚でした。


ちょうど、その週の初めに、
ダーさんこと、島田圭介さんの
オンラインミニ講座というマインドフルネスの
ミニ講座があって、般若心経と、
観自在菩薩のお話をしてくださっていたことも、
大きかったと思うのですが、、。






涙を落としながら、トマトを植えながら
ナモバロを口ずさんでいました。
(プラムビレッジ の
南無観自在菩薩 ナモアバロキテシュバラヤの
チャンティングです)

じつのところ、わたしは
マインドフルネスは
他者へのヒーリングのために
始めたものだったのです。


そして、決して悲しみのために準備してきた
わけではなかったのですが、、

だけど、
それはたしかに私のために、
まるでピンチのときにためにと仕込んであった
OS みたいな感じで
立ち上がったような感覚でした。

普段から、自分のことをへっぽこな実践者だな、、
と感じているのですが、、

それでも、やはり、継続、積み重ねが
わたしたちを怖れから、
一つ一つ軽やかにしてくれるんだなぁと
思わずにいられませんでした。

まとまりませんが、、

そろそろ、さくらが体を離れた時間です。

少し、座ろうと思います。


りょうこ