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三国志について考えたい(仮)

三国志関係のことを書きます。三国志だけの内容にとらわれず、その前提条件となるようなこと(儒教、中国の政治体制などなど)も多く書いていきたいです。自分が関係あると思ったらなんでもかんでも書くと思います。
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序言

貴族制の理解の仕方1.貴、貴族といった用語の内容をとりあげる、2.各人の歴史の理解・歴史感覚に基づいて貴族とはこうしたものであるという概念規定を行い、それに該当すべき当時の士人、とくにその上層部を貴族とする。3.その両者をつきまぜたような形で貴族を理解する。

 

貴族という人格は社会的存在(士人)としての一面と政治的存在としての一面とをもっている。天子の支配権力は政治的存在としての貴族にその支配を及ぼそうとし、貴族もそうした面では天子の支配権力下に入ることが多い。一方、天子の支配はその社会的存在面には容易におよばない。けれども同一人格であるだけに社会的存在としての貴族が天子の支配権力から完全に独立しているわけではない。その際改めて問題となるのは、あとでふれる、貴族をささえる基盤である。

 

魏晋南朝にあっては、天子の支配権力に二面性がある。その一面は、古い国家の君主権力から専制君主権力への過渡的なものであるが、一方的な支配者としての権力である。他面は、郷村社会の輿論としての郷論と同質性をもつものである。それは、官人制が郷論をふまえる形で存在し昨日する局面に現れている。いわゆる犯清議、犯郷論のありかたは、それを端的に示すものである。そこでは天子の支配権力と郷論あるいはその主要構成員たる士人層、貴族層との関係は(儒教的な)礼で結ばれているが、天子の支配権力をささえる御史中丞が礼の維持者であるのはこの際重要である。

 

故吏 桓範・司蕃の話 韓プク・袁紹の話

 

第二章曹氏政権と九品官人法

貴族制存立の条件として、官人層とくに貴族層の地位が郷論によってささえられるということがあるが、兵戸や屯田耕作者はこの郷論(=地域輿論)の構成員となっておらず、それだけに当時の郷論は全国の全民衆の各地域ごとの輿論とはいえない。そこに機能する郷論は、もともと後漢以来盛んになった「豪族」層の輿論として現れるのが一般的であった。曹氏はそうした「豪族」層は無視できなかったが、現実の選挙にあたっては。各郡単位に、それに本貫をかける中央官人層の意向をきくことの方が中心となっていた。このようなことから、曹氏政権下に貴族制はは出現できないということになる。

 

村という名称をもつ集落は後漢ごろ出現した。

もともと村には少なくとも二つの基本的性格があったとすべきである。その一は村の自律性である。村は独立した集落として、一村でその水利・灌漑などの昨日を保有したことを想定すべきである。その二は、村が自衛的集団であったことである。

 

第四節 後漢末魏晋南朝の郷村社会と任侠的習俗、郷論

魏晋南北朝の初期のものを簡単に図式化して述べておく。それは郷村社会における各豪強、各「豪族」とその下にある任侠的関係で結ばれている人々との間の輿論の総和ではない。その輿論は城内の人々を含む各地域の人々の孝行を中心として動いている儒教的名教―礼をふまえたものである。そうした輿論について若干のことを考えてみよう。

第一に、孝を中心とする家族道徳―礼の底辺であるが、漢時代そうしたものは、かつての礼は庶人に降らないといった枠をこえて庶民層に及んでいる。それだけにその礼を中心とする人々の意向は(文字通りの)郷村社会の意向となりえることになる。こうした点は六朝に入っても変りはなかった。

第二に、士人とそうした礼との関係についてであるが、いまとりあげている士人となる資格は、もともと学問を修め経国の識見をもち、旧来の士人層からその故に、仲間と認められるところにあった、それだけに士人となる際郷村社会に勢力をもつ「豪族」である必要はなく、微賤な家系のものでも士人となりえた。そこでは当然家族道徳の実践ということが前提となっていたのであろうが、その実践者がすべて士人であるといったことはなかった。(その実践者が庶民に終始することもあった。)

第三に、「豪族」層の進展と右との関係についてであるが、もともと「豪族」層がその故に礼の実践者であるわけでも士人であるわけでもなかった。しかし、郷村社会に勢力をもつ「豪族」層はやがて郡単位に士名(士人としての名)を独占するようになった。(そこでは単家の豪強は士名を得ることはなかったであろう。)これに対し中央にも士人層が生じた。この士人層は必ずしも本貫をかける郡の士人でもなかった。そこでは、名目はとにかく実態からいうと、全士人層が礼を中心とする存在として本貫をかける郡単位にまとまり、士人が郡の輿論におされて中央の官人となるといったことは未成熟であった。貴族制における郷論は、そのつぎの段階としての、中央、地方を通じ、文官官人層が本貫をかける地域の一本化された輿論におされるといった形をとる郷論である。(この際、本貫の最大単位は郡から州となる。)そこでは、郷村社会の名声と官界とに対応が生じ(晋書鄭沖伝)、孝友が郷党に著れること、名行を修めることが官人たる一条件となる(晋書裴秀伝・晋書王濬伝)、といった形で郷論が官人たるものをささえるようになり、かつ士人がその立脚する政治的条件をこえて家族道徳を中心とする礼でまとまる(晋書孔愉伝など)といったことが現れている。

 

第五節 曹操政権と士人層

曹操が中央、地方の人材を部下として傘下に入れたのは旧来よく知られている通りである。ただし、魏王国ができる前は、各地の人材を後漢王朝の中央要官に任ずることもあった。(韓嵩、蒯越、劉先、鄧羲)しかし、魏王国ができてのちは有能なものをその王国の要臣とすることがおおかった。

なお、曹操は法家的立場をもってその臣下に臨んだといわれている、しかし、そこには韓非子などの法家がいうような、絶対者としての一方的な支配とは色合いを異にするものがある。つまり一方的な支配を内から情誼で支えるということがあったのである。

 

魏志武帝紀の注に、荀攸らは曹操が魏公となり九錫をうけることが冠帯の至望にかなう所以であるとしている記事がある。結局荀彧の自殺は少くとも表面上彼がひきあげた士人を含め、他のものに殆ど影響を与えなかったといえよう。

 

曹氏政権の高官たちは曹氏の臣下としての功績、才幹によって、いわば個人としての資格においてそれぞれの地位にあるのであって、地方の豪強、「豪族」として、あるいはそれらの利害の代表するものとして、その地位にあるのではない。

 

曹操が「豪族」層の存在に対して行った対策。

曹操政権の軍事的経済基盤が必ずしも郷村社会にあるのではなく、兵戸と屯田経営とにあった。→もともと彼らの郷村社会壟断に対処するところに出たものであったにしても、一旦成功してのちそれは一面で曹操の郷村社会なり郷村社会に勢力を張る彼らなりへの対策にゆとりをもたせるとなる。つまり曹操は土断などを断行することによって郷村社会を協力に把握し、そこに軍国の基礎をおくといった形で彼らと正面からぶつかることはしなかったのである。

その一は、彼らの私従(一族の私従を含む)をその政権強化に役立たせるべく、直接あるいは間接にその政権の構成員として把握する形をとるものである。(許褚の侠客を虎士とし、その中から官に封ずることで彼らの私従を切り離して直接把握する、李乾の私従を切り離すことなく子の整、一族の典に引き継ぐという間接把握するなど)

その二は、彼らの郷村社会における声望を量って官人とする形をとるものである。曹操はそれらを官人とすることを通じてその影響力をもつ郷村社会の治安維持などを図ろうとしていたと考えられる。(何?が曹操へ述べた言葉、魯粛の赤壁前の言葉)

 

第六節 九品官人法の制定とその目的

 

第一の目的は、対象となるべき士人の官人としての能力をよく知ることにあった。

第二の目的は、選挙制度を通じて官界に任侠的関係がもちこまれるのを防ぐにあった。(曹操期には他者の第一の故吏が存在していた)

第三の目的は郷論をとるという意図を示すにあった。

 

第八節 中央士人層の出現とその実態

漢時代の士人には世襲的集団としての中央の士人層、地方の士人曹といった区別はなかった。

魏の曹氏の政権確立の過程においてその政権の中枢にある人々が自ずからひとつの政治社会集団をつくり、そこに中央の士人層が生じてきたことと、各地方で郡単位に、「豪族」層が一つの政治社会集団をつくり、それが同時に自律性をもつ士人集団化していったことに中央の士人層と地方の士人層という区別の起源がある。