「中国中世史研究」―後漢における知識人の地方差と自律性― 勝村哲也 感想 | 三国志について考えたい(仮)

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 この本は、後漢知識人の基本的な性格を検討した上で、特に地方人物史から詳しくその性格を検討しようとしたものである。中でも孔融と陳羣の汝潁優劣論争に着目し、特に潁川郡や汝南郡の知識人の性格からその性格に差異があったことを示そうとしている。
 また、筆者の調べたもの以上に、筆者の推測による大きな後漢知識人のアウトラインが示されており、その上でその結論に至るまでに必要となる問題をいくつかあげているところにも大きな魅力がある。


 さて、筆者は木村氏の説を用いて、「いわゆる新県は中央への依存度が強い」ことから河南の重要性を示し、この地域では国家権力と豪族勢力が絶えざる緊張関係にあったという推論を提示する。そこから両者の関係が背反した場合に、「逸民」と「義士」「清節強毅の士」という両極の「処士」が生まれたと考えておられるようである。この意見には私も大いに賛成で、「逸民」と「義士」をわけて考えるのではなく、双方ともに後漢の知識人の連続として捉えることでその後の歴史理解を深めることができるのではないだろうかと考えている。また筆者の論文で、宦官の出自が開発されて文化の高いところから多くでている点に注目し、地方研究の助けとなるのではないかという提示も今後検討してみたい点である。

 次に孔融の「汝潁優劣論」の検討から、孔融は自分自身を漢的理念を重視する知識人として、荀彧らを体制順応型の知識人として捉えている。しかし、范曄にいわせれば、荀彧は新しい体制を創造し、次代の門閥貴族の源流となる六朝的な知識人であるという。これも非常に興味のある問題で、荀彧らは漢の臣下であろうとしたのかという点、また、荀彧らが率先して新しい体制を創造したのかという点は今後検討していきたい。現在の私見を言えば、荀彧が漢の忠臣であったというのには後漢の歴史の変遷、荀彧自身の行動からとても言えないのではないかと考えている。

 そして最後に、筆者は「清流派」に疑問を投げかけて終わっている。「六朝門閥貴族につらなるものとして清流派と理解するならば、当然これに対する歴史的説明を施す努力をせねばならない。」としているが、確かに清流派知識人=党人と同一なものとして荀彧、陳羣らを見ることには無理があるように思う。筆者のいうように清流派知識人を概念として捉えた方が良さそうである。