長い文なので、興味のない方は、
どうぞ、スルーして下さいね



別居したのは、
現在のことではない話です。
私がまだ30代のことから始まる話です


若い頃の自分と今の自分 私の人生


別居していて最後に一緒に住もうと言った彼、
しかしそれは、私をこの家に縛り付けて、
親の面倒を見せたいキープだったのだ
と住んでみてすぐに、わかる!
向こうから別居をやめて一緒にやり直そうと
言ったのに、こちらへきてみたら、
生活費用も、10万だけで、泊まることもなかったまあね、触るのも嫌だと言われたから
仕方ないかしらね。。。




もう何十年一緒に住んでなくて、

小さな子供を教育もちゃんとして育て上げた
あの人からは。。。一切なにも!!!
ただ、養育費を、子供からいちいち毎月
電話するとやっとで五万円!

でも、子供と待ち合わせると、すっぽかし
もあった。当時、子供、つまり、娘は小学生


別居するのには、理由があった
娘とある朝納豆を食べていて、多く食べたとか
どうとか、小学生相手に怒り出し、止めに入った
私と口論になり、それまで、夫婦として
わだかまりがあったことが原因で、
娘とのことは、本当は、きっかけになった
だけで、本質は二人の意見の相違や日頃の恨み
からだった。それで、暴力を振るわれ、
そして、俺なら出て行くわ!と言われて
ランドセルと枕だけ持ち、小さな娘の手を
引いて家を初めて出た。



夫との出会いと親との同居 田舎へ

21歳で名古屋の企業に勤めていた私は
そこで夫とあった。優しい人だと思った。
山形の田舎の素朴な誠実な青年に見えた


結婚して、山形で子供を産んだ
親と最初から当然のように同居した
初めはご飯を二杯目食べるのにも叱られた
父親には細かい性格で嫌味で苦労した
母親は、優しかった。

なので、私は徹底して、このお二人を
自分のファンにさせようと、頑張ることにした
それを楽しみにする、趣味とした!
懐くと、いつかは、心をひらくものだ、
いろんなことが本当にあったが、私は
素直さが取り柄だと思っていた
一度決心した以上、名古屋には逃げ帰らない
帰っても母はもう、他界していたし


喧嘩しようがほったらかしにされようが
なにしろ彼の親になつく、彼の家にとって
大切な存在になる!を目指した!
そういう私を自分で誇らしく思ったし、
当時は、けっこう、楽しんだものだ!
愛してたしね!

まず、山形の人たちは、名古屋の女性は
好きではない。都会の女はキツイとね、
でも、それを打ち破るには、まずは、
相手の懐に入ること!ならなんだろうか?
懐に入りやすいものとか?
あっ、方言だ!
名古屋弁ではなく、標準語ではなく、
方言を勉強しよう!
そこから、毎日、聞くたびにメモして、
覚えて方言を使うことを楽しんだ。

向こうの方に言わせると、ヘンテコ山形弁
らしい。
名古屋弁の混ざったイントネーションだった
らしいが、私は完璧だと皆に言って笑われた


義父が倒れ、手術後は、入院中毎日通い、
ベッドの上に乗りマッサージや、ホットタオル
で、点滴の腫れたあとを、あたためたり

そうしていたら、
最初は嫁のくせに、二杯目お代わりするんか
と意地悪だった義父が優しくなった
どうやら、一緒の病室で、見舞いに来ても
ベッドの下で、漫画をずっと読んでる息子と
毎日来ては、看病をしていく私を比べて
同室の入院患者のおじいさんたちから、
いい娘だな、て言われたらしい。
いや、嫁なんですとね。。。そこから、
義父とは、親友になった

義母には、膝の上に頭を乗せて寝るくらい
仲良くした。わざとね、
プライドもクソもなかったんだ、あの頃
必死だった私は、その時は幸福だったと
思っていた。


新婚時代から孤独だった


新婚なのに、友達連中とマージャン、テニス、
パチンコ、して帰ってこない夫、

子供が逆子で産まれるからと帝王切開の場合
どうする?と医師に言われても、自分の母に
まかせて、
一切生まれた時も後でしかこなかった。


産後なのに、真夜中に電話がきて、車で
迎えに来いと繁華街に呼び出され、
待った挙句、酔っ払いを乗せて、全員を
あっちだ!こっちだ、と、真っ暗な田んぼを
真夜中に走らさせられ、一人ずつ仲間を
送らさせられたり。。。

洗い髪だったので行けないと断ったら
いうこと聞かなかったから、仕方なく
迎えにいったが、道がわからないので、
酔っ払いでは頼りなくて、田んぼの
あぜ道を送るのは、とても、怖かった
記憶が残っている


夫の吐いたものは手で受けたり。。。



名古屋へ夫の転勤で戻ってから別居へ


ずっとずっと、離れて暮らした方が長くて
私の結婚とはこの頃しかない、わずかだ
夫は、一流企業で一千万年収なのに、
養育費をすっぽかしながら、子供に言われ
振込ではなく、現金渡しで、いちいち
恩着せがましく、いやいや渡したものだ


だから、私は、離婚はしていないが
ずっと母子家庭と同じだったから、
生活が本当に苦しかったことがあった。
初めはパートだったから、正社員になるのに
その時の上司に頼んで、他の会社を紹介
してもらった。



苦しかった日々 しかしそれも楽し!

主人の給料で暮らしたのは、ほんの少しだけ
あとは、みんな、自分で働いて職を変わる
たびに、収入を上げてきた。。。
しかし、米びつの米粒の数を数えたことも
あった。。。



娘に•••

しかし一つ、娘にとても迷惑をかけたのだと
心から詫びる
親のルーツは子供に反映してしまう!
子供は親を選べないからだ。

ごめんね、娘よ、苦労かけてしまい
本当に申し訳ない

若い時の愚かな選択のミスが、このように
子供の代まで、お金で苦労かけてしまう
私が会いたくないだろうと気を使ってくれて
養育費を手渡しか嫌だといわれ、
父親と待ち合わせし、すっぽかされたことが
沢山あったことも、こんな父親でなければ
そんな目に遭わなかったろうにと。。。

ごめんよ 本当にごめん•••



みなさまへ


娘はこのことを話すと、私がさも、得意げに
話してるように思えるから話さない方が良い
と、忠告する

しかし、これは、一つ一つ全てが本当に
あったことなのだから仕方ない

なぜここで話すかというと、
なんで、私って波乗りみたいな人生を選んだ
のだろうかと。。。
精神がパニックになる寸前でなんとか、
自分で食い止めたが、変な話だけど
電車やバスに乗るのが怖かったり、
ワインを飲むのが好きなのに酒類を飲むと
パニックになり、汗が吹き出し呼吸が苦しく
なった時もあった。

だから、どんなに前向きでどんなに強い人でも
知らない間に、自分は弱いものだと体の方が
勝手に認識して、このような心理状態になる
ものだと、今悩んでる方に伝えてあげたい
誰でもあり得るのだからと。。。
そして、必ず治るものだと教えてあげたくて。
決して、異常ではないのだと。。。



今が一番色々まだ残っている問題は
やってくるけど、娘と、幸せで平和な時間が
過ぎてゆく•••



また、今度、続きを聞いてくださいね
なぜか。みなさんには、話したく
恥ずかしい話なんだけど、話したいと
思いました。


長い文を最後まで読んでくださり、
感謝いたします。


ラーちんママ🌹