病院から帰ってからの僕は退院したというものの、まだほとんど寝たきり状態のままで、呼吸のできる人形のようだった。
音楽やTVで気分転換をしようとしても、気付かないうちに眠って、何時間かすると目を覚ます。
その繰り返し。。。
食事を取りたくても、中々動く事も出来ず、這ってトイレに行くのが精一杯。
それでも何か食べなくちゃと、買ってきてもらったロールパンを1日何個か口にするのと作り置きしてもらった麦茶を飲むだけの生活が続いた。
それでも意識のある時には、突きつけられたこれからの自分の人生についての大きな課題を考えていかなければならなかった。
まずは家族からだった。癌の手術を終え父も元気になったので、自分の病気について家族に話しに行った。
しかし、両親も弟も医師の書いた診断書も、病状の事の書いてある書類にも目を通すことなく、そして僕のいう事にもまったくとりあってくれなかった。
(どうして、話しをきいてくれない??)
心配をなるべくかけないようにと思って、今まで病気の事をきちんと話さなかった事が気に入らないのか?
そもそも、昔から親の意見に従わず自分のやりたいようにやってきたのが、気に入らなかったのか?
もともと、僕の母は僕を外交官とかにしたかったらしい。かといって、別にうちはそのような特別な家系ではない。普通の共働きの家で育っていた。
今ではお受験が当たり前のように行われる時代だが、僕らの時代にはそんなものはなかった。
それでも、塾に幾つも通わされ常に誰かと競い合っているのが嫌だった僕は、進学校で有名な中学に受かったのにも関わらず、そこに行くのを拒絶し区立の中学校に行った。
それから、両親は僕に何も言わなくなった。
中学校の3者面談で、どこの学校へ行きたいかと担任に聞かれ、親も本人の意思に任したいと思います。と言ったから、正直に
「ホテルに入って調理師になりたい。夜学で調理と高校の勉強が出来る所も探してある。」
と言った時、担任と親と両方から頭をたたかれた。
(本人の意思にまかせるっていったのに。。。)
担任は、ことごとく成績のことばかり言うから、それからのテストは全て白紙で出した。
だが、中学生の子供に抵抗できるのはそのくらいで、結局、親と担任の為に高校にも大学にも通った。
高校も大学も始めは、時間の無駄だと思ったが、入ってみればそれはそれで、今でも続いている大切な仲間と素敵な時間を共有することが出来たことは、僕にとって大きな財産となった。
ただ、ちょっと他の人と違っていたのは、僕はその時代にはすでに学校では決して教えないであろう、現実を人より早く体験という形で覚えた。
いい事も、悪い事も。。。
そして、早くに社会というものを頭ではなくて、自分の身で知る事ができた。
その頃(高校入学)から、「自分の事は自分でやる」と親に言い、学費以外はアルバイトで稼いだお金で自分の生計を経てていった。
変な話だが一緒の家には住んでいたけど、食事も別だった。
変な所で器用だった分、不器用な生き方しかできなくなってしまったのだろうか?
23歳になり社会に出たある日、家に帰ると母親が三つ指をつき、
「お願いですから、出て行って下さい。」と泣きながら言われた。
元々それ程、家には帰ってなかったため家に未練はなかったが、なぜそんな事を言われるのかまったくわからなかった。
ヤンチャして迷惑をかけたことはあったが、家で暴れたりする事などは一切なかった。
まったくもって、理由がわからなかったが、母親にそこまで言わせる何かがあったのだろう、「わかった。」と言って何も理由を聞かないまま、次の日の朝、スーツケースに着替えだけを入れて家を出た。
それから、現在に至るまで独り暮らしをし、親とも距離をおいていたので、迷惑といった迷惑をかけた覚えはなかった。
退職した父が、「自分の仕事をしたい」と言てっきた時に会社を作ったのも、僕自身がここまで悔いなくちゃんとやってこれたという証明と、せめてもの親孝行のつもりだった。
だから、今回はちゃんと僕の病気について一緒に考えてもらいたいだけだった。。。
(なんで病気の事を聞こうとしてくれないんだ。。。?)
と思う疑問しか浮かばなかった。
この時から僕は、家族というものからハミダシ者になってしまった。
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