幸せな老後とは | あの頃は若かった

あの頃は若かった

~失敗ばかり、後悔ばかり、運のない人生。老年期に向かっての心のこと、身体のこと。もう少し悪あがきしてみます。~

先日は母の日だったのに何もせず、近くの義母にも片道2時間の実母にも顔さえ見せることなく過ごしてしまった。私はといえば、自分のことばかり優先。50代半ばの親不孝な娘。

 

どちらの母ももう80代半ば。義母は3年前に義父が亡くなり、実母は40代から未亡人だったが、数年前に晩年を共に過ごした男性(死別独居)が突然亡くなり、どちらも完全なひとり暮らしとなった。運転免許証も返納し、買い物にも不自由している。

 

どちらも今は健康で、物忘れは年齢相応にあるけれど、それなりに自分のことは自分でできている。どちらも要介護1程度であるが、介護保険のサービスも特に使っていない。偏見が強くてデイサービスなんて行きたくないと言うし、自分の食事ぐらいならなんとかなっている。

 

どちらも昔話なんてしない。「あの頃はよかった」なんて言わない。老いを受け入れ、粛々と過ごしている。だけど、彼女たちを見ていると「幸せな老後」とはいえないのではないかと思ってしまう。幸せな老後とはやっぱり家族の中にいることではないかと思ってしまうのだ。

 

若いときから、義母は粘着質でストーカー気質。同居でも別居でも毎日部屋に上がり込み、あれこれ詮索するのが日課だった。毎日のように家事でできてないことを言われ続けた。実母は、私が高校卒業してからは一度も一緒に暮らしていない。私に生理的嫌悪があり、どちらの親とも同居は無理だった。義母とは近くに住んでいるものの、私が仕事に逃げていることもあり、一定の距離を保っている。というか、全くかかわっていない。

 

片や何世代も同居している家族も近所には多く、長女の婚家のおばあちゃんは90代なのに娘夫婦や孫やひ孫に囲まれ、デイサービスでいろいろな作品を作り、今もおしゃれで生き生きとされている。そういう高齢の方を見ると、「幸せな老後とはこういう人なんだろうなあ」と思う。最後は家族や人間関係なんだろうと思う。

 

かといって、実母や義母を呼び寄せて一緒に暮らすのも違う。今さら生活が合うわけがない。結局動けなくなるまでは今のままでいるしかできない。何かしてあげたとしてもいろいろ不平不満を言われ(認知的には衰えているので仕方ないとは思うのだが)、こちらは虚しさだけが残る。親孝行しなくても罪悪感が半端ないが、したらしたでイヤな気持ちになってしまう。義兄夫婦は明らかに報酬めあてで親孝行らしいことをしているが、この際そういう不純な目的でもいいのかもしれない。

 

今の仕事をしていてもときどき思う。

公共の福祉サービスなんて本当は誰も使いたくはないんだ。本当に必要なのは「お助けマン」みたいに、困ったときに多少お金がかかったとしてもなんとかしてくれる人なんだ。家族もだけど、人間関係でそういう絆を作れる人はまだ幸せな人なんだと思う。

その反面自分のお金は使わずに福祉になんとかしてもらおうとする人も多くて、軋轢が生まれやすい。

 

最後はお金と人間関係なんかなーと思う今日この頃である。

まだ死にたくないけどあまり長生きするのもよくないなあと思う。それに今のままでは財産が残せないから、早く死んで保険金でももらったほうが、娘たちにもいいのではないかと思えてきた。