「抱かれたい」と思わないから | 水底の月

水底の月

恋の時は30年になりました 

「力を抜いて。ここで抱くほど理性を失ってない」

 

 

思わず力が抜ける私の身体の変化を、眼鏡の向こうの眼は見逃さない。

 

数回交わした唇を離すと、笑みを浮かべぽんぽんと頭に手をのせた。

 

 

 

「抱かれることが嫌い?それとも、私が怖い?」

 

「いえ、そういうわけでもない・・・えっと、事務局長さんのことが怖いわけでもないし」

 

 

 

見上げる。

言葉を交わし、唇を交わし、またそっと腕の中に包まれる。そんな中学生が読む恋愛小説のようなシチュエーションで十分幸せだった。

 

 

抱かれることは、その先の時間を保障する契約のような。その為の捺印作業のような。

パーツで起こる快楽を感じることへの恐怖感、自分が自分では無くなる。好きな人に抱かれるという行為でも汚れてしまうような、そもそもの関係の不実さもあって。

 

 

あたり前のように「時期」で求められ、そしてそれは男からすれば正当なもので。

拒否は嫌いという意思表示になる。

 

拒否できる、という選択肢はない。相手のことが嫌いではないのだから。

 

ただ「抱かれたい」と思わない、というのがどうしたものかと。

 

 

 

でも

身体を火照らせ、快楽がじわじわと這いあがってくるような感覚や、貫かれ果てていきそうな時に互いに絡む息遣いは、たぶん嫌いじゃない。

そして、抱かれた後。絶対的に訪れる安堵と包まれるような高揚感は、全てを認めてもらえたような安心感を覚えるものでもあって。

 

 

でも、斜に構えて見てしまう、乗り切れない。

Oさんは「愛される」で始まったから。先生は「愛する」で始まったから。

そこのところの気持ちの違い?

 

じゃ事務局長とは、抱かれた後、先生寄りの気配になるのかしら。

 

 

ふたりの男性と経験を持ちながら、そんな自分の中の違和感を拭えずにいた。

 

 

 

男の恋、愛がSEXのその先で少しずつ始まり、拡がり、落ち着いていくことなど知らない頃。

 

ま、今だったら「その物思いは今後の経験で克服できます、とりあえず行け」と、sanaちゃんの背中をどーんと押すのですが。

愛される、愛する技術を磨くことも大事、でもその手前の、こんな事にうじうじ悩む頃もあったわけです。

 

 

 

・・・私だって、今よりは随分とスレてない、乙女な時がありましたとも、はい。

 

 

 

 

 

 

「当日、あのね、車、出してくれる?」

 

「ん?」

 

「だって・・・せっかくだから、ちょっと飲みたい」

 

 

 

ふっ・・・今度は私に笑みが浮かぶ番だった。

 

 

 

 

ま、この「車出して」には、事務局長なりのワナがあるわけですが。

 

 

 

 


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