100パーセントの裏側 | 水底の月

水底の月

恋の時は30年になりました 

身体の中にある苦しみや悲しみや淋しさ。自分ではどうにもできなくなった化石のような感情。

 

日常で蓄えたそれらは先生に与えられたものではないのに、私は今まで、先生に逢うたびにそれらをぶつけてきたような気がする。 

 

逢えば先生はただ傍で、時折覗き込むような目をしながら私を見て、苦しみの欠片など言わせないままに溶かしてくれた。詰問でも力づくでも否定でもなく。吸い取る、というのが近いかもしれない。

ただ時折、言われていたのが「もうあんまり無理をしないほうがいい」ということ。何が無理なのか、何をもって無理というのか、そんな風に思う時もあった。


ただ、それらがあまりにも大きくなりすぎ、もう先生には逢えない状態の自分だと思った数年間は、先生からのLINEにすら他人行儀に返事をしてきた。


もう先生の傍に添うには、いまの私では先生を汚してしまうことになると。

自らをさらすのが嫌だと。誤解をされるならそれでいい、そんな思いでいた。

 

 

 

 

「卒業後のあの日、私が先生からのデートのお誘いに乗る、と思いました?」

 

「100パーセント来る。じゃなかったら誘ってない」

 

「うそ。・・・そんなに自信があったんですか」

 

「あった。絶対の自信がね」

 

「うそぉー」

 

「ホント」

 

 

 

「じゃあ、私が先生から離れていかない、と思う確率は何パーセント?」

 

「100パーセント」

 

「何で?」

 

「何で? っていつか帰ってくるだろうなと思ってた。僕からは離れていかないと思っていたから」

 

「・・・何で?」

 

「何で? だって実際帰ってきてるじゃない。もう証明されてる。そうでしょ。それでいいんじゃないの」

 

 

 

 

他の人だったら嫌味にすら聞こえるだろう言葉をさらりと口にする。

横浜の夜、観覧車の下で笑いながら告げられた「100パーセント」の連続技。そう、このあたりで気づくべきだった。それだけ私のことを緻密に繊細に見る人だと、そしてずっとそうだったということを。

 

 

何で?が、やっとこ見えた気がする。

さっきの車の中でのやりとりで、それは確信に変わった。

 

 

 

先生はずっと2人称でいた。私が自分の中に閉じこもりっぱなしの1.5人称な間も。

私が先生を見てきたよりも、先生は私を見ていた。

どうして私が望むことがわかるのか。どうして私がして欲しいことに気付いてくれるのか、ずっと不思議だった。

遠くにいるから、離れている間など相手のことを考えている時間はそれほど多くない。きっとドアぱたんな関係だから私の心のうちなど気づいていない、きっと気づかない。そう思っていた。

 

 

自分の中に閉じこもって読み違いをしてきたのは私のほう。

先生の傍にいた学生の頃から、先生はきっと私という人間の動きを見ていたのだ。

 

「もう僕は先生じゃない。僕は待った。僕は今日まで1年近く待ったよ」

謝恩会の場で告げられ衝撃を受けたあの時。1年近いそんな先生の気持ちになど一切気がついていなかった私だった。先生は自分の気持ちを見せない。気づけないようなところに押し殺し、本当の気持ちに気付かせないふりが上手だ。

 

ただ、糸口を時々。それをひっぱれば少しずつほぐれていく。確信へ変えていける。

 

 

そうか。だから。

 

 

ぱたん。と音がした。

シャワーを済ませた先生がベッドルームのほうへ来る。目を合わせるのがやっぱり恥ずかしくて目をそらした。

 

 

よかった、気づけて。

 

 

 

いつものように何も言わずにそっと、いつものように私を全部吸い取るかのように抱きしめる先生に、答えの続きを預けた。

 

 

 

 

 


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