南京で学ぶ中国
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チベットよ、再び

今日から今回の旅の最終目的地、チベットを目指します。怪我で休んでいたこともあって時間がないので、かなり急ぎ足になりますが、行かないときっと悔やむでしょう。

チベットには、前回留学中の2000年夏に一度行っています。そのときにはゴルムドからバスで入境し、ラサ付近をしばらく探索した後、4輪駆動でカイラス、グゲまで行きました。北京を出発してから53日というやや長い時間を青海省も含めたチベット文化圏で過ごしたことになります。チベットというのは人の精神世界を深く耕してくれる素晴らしい場所で、また簡単にはいけない、生活条件的にも厳しい場所だということもあって、旅行するととても心に残る場所なのです。

中国側からチベットに登るルートは、3本あります。一つは一番メジャーなゴルムドルート、二つ目は四川省から梅里雪山を越えくる四川ルート、最後はカシュガルから新蔵公路を登ってチベット西部に至るルートです。今回、この最後のルートを行きますが、どうもこの道はそれなりに厳しいらしく、必ず行き着けるという保障はないようです。

このルート、まず海抜が高い。ゴルムドルートの最高箇所が4500メートルぐらいなのに対して、5240メートルあるそうです。前回4500メートル地点でちょっと走って空気の薄さに驚いた記憶があるので、5240というと、相当空気は薄くなるでしょう。先日いた中パキ国境の峠も中国人の持っていた高度計で4557メートルでしたが、やっぱり少し頭痛がしました。

それから、このルートはとにかく時間がかかります。ゴルムドルートは順調なら30時間で着くところ、このルートは一般的にはアリまで3泊4日だそうです。夏には雨が降るので道が悪く、6年前に私がラサで会った3人組みは、この公路を越えるのに1週間もかかり、スイカしか食べ物がなくて、非常に切ない思いをしたそうです。

最後に、アリは非開放地域なので、公路の途中で公安に捕まって外国人というのがばれると、そのまま追い返されてしまうかもしれません。これはかなり、運次第のようです。

このルートを通った旅行者もたくさんいるはずなのですが、「脳浮腫になって入院した」とかいうネット上の書き込みも見ました。愛用しているロンリー・プラネットにも「外国人が何人か死んでいる」などという怖い話が書いてあります。まあ、ちょっと行ってみて、もしも行き着けなかったときには、今回はチベットに呼ばれていないのだと思って、おとなしく引き返し、早めに南京に帰って新学期の準備をしようと思います。もしも私が8月9日までに南京にも戻らず、ブログも更新しなければ、そのときはちょっと心配してください。

カラコルム・ハイウェイを行く

カシュガル或いはホータンというのは多くの新疆旅行者の最終目的地ですが、実はカシュガルからパキスタン国境まで抜けるカラコルム・ハイウェイには、パミール高原が素晴らしい風景を見せてくれます。カシュガルに着いた翌日、このカラコルム・ハイウェイを走ってパキスタン国境まで行ってみることにしました。

地図上ではすぐ行けそうな一本道ですが、行ってみるとなかなかどうして、結構大変な道でした。両側が山脈になっている道を河に沿って登って行くような道(6000、7000メートル級の山々が連なる崑崙山脈を左に見る)なのですが、途中、土石流が数箇所出ていて、そのうち1箇所では1時間強足止めをくった上、土石流の川を渡るときには本当に泥まみれになってました。ひどい時には、10時間近く渡れないこともあるそうです。

カシュガルから200キロ弱進むと、カラクリ湖という湖が二つの雪山に囲まれてそれはそれは美しい風景を見せてくれます。1日でタシュクルガンまでいきたかったのですが、このあたりでキルギス族の少年が自分の家のパオに泊まっていけと誘ってきたので、1泊しました。貴重な経験でした。

2日目に、遊牧民の散在する草原と両側の高山の回廊を抜けて、タジク族自治県の中心地タシュクルガンまで着きました。さらにここから中パキ友好道路という白々しい名前の道路を通って、140キロ先の国境まで行こうとしたのですが、どうも外国人がバイクで行くというのはダメらしく(まあ紛争してたりしたので、そんなもんでしょう)、検問で引っかかって行かせてもらえませんでした。それで、ちょうどよくやってきた中国人ツアーにまぜてもらって、中パキ国境の碑があるところまで行きました。この辺界地域、外国人ひとりでいかせないのだから何かすごい秘密があるんじゃないの、と思ってみたりしたのですが、単に高原の続きとタジク族がパラパラと住んでいるだけで、パッとみてわかるようなすごい秘密はなく(当たり前か)、ちょっとがっかりしました。国境地帯では、パキ側の警備員がニコニコ記念撮影をしてくれ、ちょうどやってきたパキ人の旅行客と握手したりして、楽しい経験でした。

国境地帯の山々を見ながら、結構遠くまで来たなあと思いました。この国境は、95年春にカシュガルで一緒になった阪大生が越えたいといって雪解けを待っていたのです。そのときには、自分がこの道を行くことは想像もしませんでした。人は、思ったよりもずっと遠くにたどり着けるものだと感じます。

今回の旅行でわかったことは、新疆の民族というのは、やはり基本的にウイグル族が主体だということです。ひとことも中国語ができなかった11年前にはわかりませんでしたが、ウイグル族というのは話してみると非常にインテリジェンスが高いのです。それにどこの場所にいっても基本的にウイグル族の社会の制度はよく整っているような気がしました。キルギス族やタジク族は、本当に辺境につつましく暮らしているという感じで、この人たちには中原には対抗できないなーという感じでした。

12日間のバイク旅行を無事に終えられればよかったのですが、実は最後にタシュクルガンから戻る道で大コケしました。砂利道で砂の山が積んであるのを、同じ色なのでよく見えずにドーンと突っ込んでしまったのです。ミーラン遺跡から戻る道でも一度コケたのですが、そのときにも打った右太ももを今度は肉を内部からえぐるような感じで変な痛め方をしてしまいました。ものすごい衝撃があったので、大腿骨が折れていてもおかしくなかったと思います。今ちょっと足を引きずるぐらいで歩いていられるのは、私はやっぱり、結構頑丈にできているということなのだと思います。

私がこんなバイク旅行をしたと知ったら、父は驚いて寿命が縮まってしまうかもしれません。みなさんどうぞ、秘密にしておいてくださいね。

西域南道を行く

西安から一路西へ、蘭州を経て嘉峪関を越え、河西回廊を進んで、敦煌、ハミ、ウルムチと列車とバスで旅行をしてきました。ゆったりと西行きのロマンを追う旅…のはずだったのですが、ウルムチ近くの天池(とても美しい湖です。)でカザフ族の夏の家に泊まったあたりから、地の旅行根性が出てきて、少し気合をいれて旅行するか…と思うようになりました。

95年には、ウルムチ近くのコルラから、旅行者の進む道としてもメジャーな西域北道(タクラマカン砂漠の北縁を行く道。クチャなど観光地も多い。)を通って、バスで旅の最終目的地カシュガルに達しました。そこで、今回はより旅行的にもマイナーで、生態環境が厳しく人口も少ない地域、前回は行ってみることさえ考え付きもしなかった西域南道を西進してカシュガルに向かうことにしました。西域南道、といってもすぐにはイメージがわかないかもしれませんが、ごく簡単に言えば、タクラマカン砂漠の南縁を行く道です。古代、中原を出て楼蘭まで進んだ旅人たちは、ここで北道を行くか南道を行くか、ひとつを選んで旅を続けていったわけです。玄奘三蔵もインドからの帰路、この南道を通っています。

どうせなら最高に面白い旅を、ということで、8月12日、コルラでまあ小さくもないバイクを買いました。たったの125ccなのですが、ガタイは割合大きなバイクです(後で砂嵐に吹かれたりしたので、これは正解だった。)。8月14日、コルラから出発し、チャルクリク、チャルチャン、ニヤ、ホータン、ヤルカンドと1日300キロ超ずつ進んで、22日、無事にカシュガルにたどり着いた次第です。

路上見えてくる風景は、タクラマカン砂漠が手を変え品を変え、これでもかと一面の砂の海を示してくる砂漠がほとんどでした。ただ砂漠と一口に言っても、日本人が思い浮かべるようなサラサラの砂の砂漠もあれば、黒砂漠もあり、またチャルチャン、ニヤのあたりには、それなりに雨が降ることもあるらしく、少し草が生えたステップ気候のような土地でした。それから、ホータンに近づくにつれて、胡楊の美しい林が多くなってきました。もともと砂漠だったところに水を引いてかなり無理やり開発しているような農場もいくつか見かけることができました。

この地域は現在は完全に砂の荒地という感じですが、古代にはもっと水が多く、絢爛たる時代があったようです。楼蘭をはじめとして、米蘭(ミーラン)古城、チャルクリク古城、ニヤ遺跡など多数の遺跡が残っています(楼蘭やニヤ遺跡は簡単にいける場所にはなく、私も行けなかったのですが。)。2000年近くの時間が流れているはずですが、雨の少ないこの地域では、砂の塊としてしっかり古城が残っていて、旅行者の想像力をかきたててくれるのです。

この地域は人は本当に少なく、何時間か走るとやっと胡楊林とウイグル族の集落がある(しかもこの辺のウイグル族にはほとんど漢語が通じない)という感じで、まったく対向車にあわない地域もたくさんあり、時に孤独な旅でした。バイクに荷物をくくりつけて走っているのなんて私ひとりで、集落につくと必ず「怖くないのか」と聞かれました。怖い、と思ったことは一度もなかったのですが、それは多分、あと何キロで目的地とわかる地図と新車のバイクのエンジン音が私を勇気付けてくれるためしょう。古代、この地域を旅した人は、どこまでも続く砂の海に、駱駝の背中の皮袋の水をはかりながら、時に怖くなったこともあったと思います。

新シルクロード

今日から少し長めの時間をとって、シルクロードを旅したいと思います。午後5時の列車で、まずは西安をめざします。

シルクロードには、95年の春に初めて行きました。もう11年前のことになります。当時一言も中国語を話せなかった私は、あちこちで相応の苦労をしつつも、中国のどこまで行っても景色が変わらない広大な大地に尽きない魅力を感じたのでした。敦煌に向かう列車の中で、筆談で中国人の年配の男性と話をしました。中国の印象尋ねられたので、「中国和中国人ヘン好」と書きました。その男性はすぐに筆をとって「日本和日本人ヘン好」と書き返してくれました。あの出会いも私のその後の人生に少なからぬ影響を与えた気がします。

大陸の東の果ての国に生まれた私にとって、大陸を西に行くことはそれだけで一つのロマンといってよいでしょう。シルクロードを旅した偉大な先人たちの後を追いかけて、私も旅立っていきたいと思います。


友人に追伸:この旅の私のテーマ曲は、中島みゆきの「銀の龍の背にのって」です。みんな、気が向いたら聞いてみてね。

広東省の旅から帰って

みなさん、こんにちは。少し前に、湖南省と広東省の旅から帰ってきました。湖南の旅は下に書いたとおりなのですが、吉首から広州に向かう時になって鉄路が洪水で潰れていることが分かり(それに、本当にたくさんの人がなくなったようです。)、急遽「張界家」という世界遺産にも登録されている国立公園があるところに行き、そこから広州に飛行機で飛びました。ついでに張界家でも1日半遊んできました。

広東でのたびについては多くを書くつもりはないのですが、父と一緒にひたすら革命聖地をめぐる旅でした。中国で初のソビエト政府を宣言した海豊、広州起義や毛沢東の農民講習所の広州、多くの華僑を出したスワトウ、客家の故郷の梅州(リ・クワンユーの父祖が住んでいたという家にも行きました)など、勉強になるたびでした。父は自分のことを「本当に農民をしていた最後の世代」というのですが、「農民」ならではの当時の中国の状況ついての深い洞察があるような気がしました。

少し休んだので、また新しい旅行にでかけます。

シャンレイの故郷

シャンレイの故郷は、湖南省トゥチャ族ミャオ族自治州にある、P鎮というところです(鎮は一番小さい行政単位)。州都の吉首(一番近い鉄道の駅があります。)からバスで3時間行ったところにあります。ゲン江という大きな川のほとりにある、小さな、そしてとても美しい村なのです。

市場
実は、P鎮に行く前は、人もとても少ないド田舎なのでは、と思っていたのですが、行ってみると、市場にはそれなりに人も多く、ネットカフェなどもあって、思った以上ににぎやかでした。シャンレイに言わせると、今はどんな田舎でもネットカフェはあるそうで、P鎮はそれなりに典型的な中国の田舎なのだと思います。

私がシャンレイの故郷で修論用の調査をしたのは、先に書いたとおりですが、調査はP鎮からバスで30分のところにあるもう少し大きな町でおこないました。P鎮から毎日、バスに乗って通ったのですが、バスは美しい河沿いの道を走っていくので、毎日この景色を見るのが楽しみでした。

ゲン江ゲン江。昔は、龍の形に似せた船の競争のお祭りをやる優雅なところだったようですが、最近は川底の砂金を採るためにかなり掘り返しているそうで、河の真ん中のところどころに大きな砂の山がありました。

昼間はとても暑いところですが、夕方になると多くの人が川べりで夕涼みしています。

洪水の爪あとを残す屋根

もう一つ、ゲン江は毎年かなり水かさが増すそうで、特に96年、97年の水は大きく、かなりの人が死んだそうです。水かさも10メートル以上も増し、3階建ての家が飲み込まれるとか…。古い家の屋根がでこぼこしているのは、その爪あとだそうです。昔、私が住んでいた横浜でも帷子川という川がよく氾濫していたのですが、氾濫と言ってもマンションの1階以上にくることはなかったです。中国の洪水は規模が大きいということでしょう(そしてちょっと氾濫すると人が大勢亡くなる)。







診療所シャンレイの家は、お父さんが出稼ぎ、お母さんがお医者さんで、家の1階で小さな診療所をやっています。お母さんは昔は裸足の医者“赤脚医生”だったそうですが、その後資格をとり、診療所を開いて、町の人にとても慕われています。診療所は、朝から晩まで点滴する人でいっぱい。特に5日に一度市が立つ日は大変です。注射を打たれる子供の泣き声が二重奏で上まで響いてきました。診療所では、結構幅広い病気を見ているようです。私も汗疹ができてしまって診てもらいました。

痛いよ~
ほっぺたに緑の薬草をはっている男の子。痛み止め。

シャンレイの家にいた1週間の間に、何と2度もお葬式に当たりました。朝5時半頃、やっと明るくなってきたぐらいに、まずドーンドーンと花火?の音がします。爆竹のバンバンいう音とは違う、途切れがちな音です。その後、小さいときによく聞いたチンドン屋みたいな楽器の音が聞こえてきます。これは、お棺を山に埋めに行く人の行列が通る合図なのですが、すぐ後にたくさんの花輪をもった人が通ります。それから、泣き女みたいな役の人?が「ヒ~~」というちょっと怖くなるような泣き声をあげながら歩いていきます。その次に、長い白い布をかぶった遺族がお棺を担ぎながらやってきます。私は3階の窓から見ましたが、ちょっと異様な光景でした。

夕暮れにはよく、シャンレイの家の周りを散歩しました。少し歩くと、一面のはす畑のようなうっとりするような美しい光景が広がっているのです。そして、みんな家の前にでて夕涼みしています。私のことを「見たことないヤツが来たね」とチラッと見ています。

毎朝食べた米粉近くには、国民党統治時代に監獄にされていたような古い家もあり、今では普通の民家なのですが、おばさんが私を招きいれて見せてくれました。高い壁にドキドキしていたら、後ろに人の気配がして、ギョッ!!!…よく見たら牛を飼っていました。

毎日食べた米粉→






P鎮を離れる日、シャンレイがバス停で見送ってくれました。帰る道は、その途中毎日インタビューに通った町を通ります。美しいゲン江も、もう自分がその風景に溶け込んでいると思うほど、見慣れた風景になっています。数日しか会っていないのに、とても親しみのわく南下幹部の人たちのことを思い出しました。シャンレイが言います。「やっぱり、縁あって、ここに来たんでしょう。」人生には、縁がある場所があり、縁がある人がいます。これからも縁が私を導いてくれるでしょう。


湖南の南下幹部

7月11日から1週間、シャンレイの故郷である湖南省のある村で、修士論文用の材料集めをしてきました。

恥ずかしながら、去年の秋留学を始めたときには、特に自分で何かこれを研究するのだというテーマはなかったのですが、指導教官になった先生の「シャンレイの故郷に行って、共産党がどうやって少数民族地域に入っていったのか研究しなさい」という一声により、これが私の研究テーマになりました。先生は同時に、シャンレイに私の面倒を見るように「命令」したそうですが、全く何の関係もなかった外国人の友人を自分の故郷に連れて帰り、1週間も毎日調査研究に付き合ってくれるなんて、正直、日本人の中にはここまでのことを外国人にしてくれる人はなかなかいないのではないのでしょうか。

先生の意図は、紙の資料を読むだけではなく、当時実際に働いた人に話を聞いて、インタビューを大いに交えて論文を書きなさい、ということで、当時の共産党幹部を探してインタビューをしました。実は湖南に行く前には、ほとんど何の資料もなく、実際に会える当時の幹部がいるかも全く不明だったのですが、シャンレイの高校のクラスメートの助けや「老幹部局」の局長が協力してくれたお陰で、6人の(少し時代は前後しますが)南下老幹部(先に共産党が“解放”した地域から新しく“解放”した地域に移ってきて、新中国建国当時に地方政府を作る仕事をした幹部)に会うことができました。

南下幹部の多くは、1920年代の生まれで、49年の新中国建国のときにまだ20代、或いは10代だった人たちです。北京や河南という先に解放された地域で仕事をしていたとき、党の“新しく解放した地域を建設するのだ”という大号令に応え、“党が行けという場所に行く”という単純な理由で、そこで50年以上住むことになるとは全く想像もせず、素晴らしい国を作るのだという希望に燃えて、やってきたそうです。多くの老幹部が当時の写真を見せてくれましたが、どの顔もハッとするほど希望に満ちた明るい顔をしているのです(しかも皆かなり男前!)。彼らが湖南にやってきた当時は、周りは山だらけで道もなく、まだミャオ族と漢族は非常にはっきりと別れて生活しており、現地の人とは言葉も通じず、来てみたら先に“偽”共産党政権が居座っていて、山には匪賊が跋扈して夜もおちおち眠れない状況だったそうです。ここから彼らは若さと理想を武器に仕事をしていくわけですが…。

今回、老幹部から直接話を聞けたので、本当に勉強になりました。自分の想像と違っていたことも多くありました。私は北京で勉強していたときに、40年代後半生まれの中国人から共産党への懐疑的な気持ちを多く聞いていたので、中国人はみんなそんなものかと思っていたのですが、新中国建国当時の老幹部はそれはそれは誇らしげに当時の熱い気持ちを語るのです。(もちろんその後文革などでひどい目に遭った人も多くいますが…。)それから、ミャオ族は別に共産党を歓迎しなかったんじゃないの、と思っていたのですが、とにかく匪賊に苦しめられていたので、治安を回復した共産党のことはやはり歓迎したそうです。シャンレイのひいお祖母さんは山奥で小作人をしていたところ、共産党がやってきて1畝の土地をくれたので、当時はとてもうれしかったそうです。もちろん、その後の政策により、ミャオ族はかなり漢族に同化してしまったので、その辺りをどう考えるか、難しいところですが。

私は実はお年寄りの話を聞くのがとても好きで、特に戦争の時代を生き抜いた老人の話を聞くのを人生の趣味にしています。今回はこの点でも本当に満足でした。老幹部の皆さんはもう80歳ぐらいのご高齢でしたが、彼らの言葉の端々に感じられる人生というものに対する楽観的な態度や、他人に対する温かな心遣いは、私がいかに“zuo人”するべきか(身を持するべきか)、という点について多くの示唆を与えてくれたように思います。老幹部の中には、最初は日本軍と戦っていたというような人もいるので、日本人に対する感情はあんまり良くないのではと思っていたのですが、実はそういう本当に戦争をした世代の人のほうが、「要世世代代友好下去」などと温かく自分の家に招き入れてくれたりするようです。

さて、今回もう一つ驚いたのは、中国人の“大方”(気前がよい、金離れがよい、ケチくさくない、鷹揚である)なことです。調査を始めた日、資料館でYさんという方が私の知りたいことについてかなりまとまっている本を書いていることが分かったのですが、Yさんは3年かけて書くというその本の出来上がった部分の原稿用紙をコピーしていいよ、と渡してくれたのです。その何十枚もの原稿から、かなり背景知識を得ることができ、本当に助かりました。また、その地方のテレビ局が数年前に南下幹部についてのドキュメンタリーを撮っていたことが分かったのですが、その製作者を探してお願いすると、「絶対人に渡さないこと」といいつつ、その長いビデオを全てコピーしてくれたのです。こういう気前のよさ(気前がいいという一言で片付けていいのかは疑問ですが)は、はっきり言って日本人にはあまりないものではないでしょうか。

もちろん、日本人はケチでよくない、などと言っているわけでは全然ないのですが(日本人にも鷹揚な人はいると思います。)、思いがけない中国人の“大方”さには大いに感銘を受けました。いつか私も中国の友人に何かを頼まれることがあれば、その時には“大方”な女でありたい、と思います。

ミャオ族の村

今回の旅行のことを忘れないうちに書いておきたいと思います。


湖南省土家族苗族(トゥチャ族ミャオ族)自治州の州都吉首についてからすぐ、二つミャオ族の村を訪れた。中国語では、山間の村(特に山賊の住処などの村)のことを、“寨”zhaiヂャイという。ミャオ族の村は、“苗寨”である。

一つ目の“苗寨”は、吉首からバスで30分のところにある“徳芬”という村。吉首についた翌日、シャンレイとその弟(ミャオ族)、その親戚のお姉さん(トゥチャ族)と出かけた。

徳芬は、はっきり言ってかなり世俗にまみれてしまった偽ミャオという感じで、行ってかなりがっかりしたところ。もともとミャオ族の村があったところに、割合きれいな滝があるのを利用して、滝とミャオ族のパフォーマンスをメインポイントに、観光開発をしている。

行ってみるとゲートをくぐった後にまず目に付いたのは、なんとなくエスニックな雰囲気をかもし出すみやげ物を売っている商店の群れ。みやげ物屋は観光地には付き物だとは思うが、売っているものにミャオの特徴がほとんどなかったことにはがっかりした。商品は四川省の九寨溝や雲南省の大理で売っていたものとほとんど同じ。ミャオ族人形(3体10元)も、店主のお兄さんにこの衣装は紅ミャオ?白ミャオ?(ミャオ族は居住地域によりかなり衣装が違う。)と聞いてみても、ただミャオ族というだけで、全く説明できない始末。多分、その店主はミャオ族ではなく、単に外地から来た人が商売をしているだけなのだろう。みやげ物屋にかろうじてミャオを見出せたのは、機を織ってミャオの民族衣装を作って売っているところだけ。ミャオだわ~と思って写真を撮ろうと思ったが、機織のおばさんに「写真を撮るなら1元払ってよ!」と怒鳴られてしまった。

草鞋を編むミャオのおばあさん気を取り直して、4人で滝に向かって歩く。川に沿って遡り、滝を目指すのだが、その途中で多くのミャオ族の衣装を着た女性、主におばあさんが水や果物を売っていたので、話かけてみた。「おばあさん、ミャオ語、話せますか?」「は?水は2元だよ。」「ハイハイ、2元ね(水を買う)。ミャオ語でニーハオは何ていうんですか?」「×××。プラム買う?1元。」「うーん、果物は荷物になるからなあ…。家ではミャオ語を話してるんですか?」「私の編んだ草履、3元だよ!」……めげずに何人か話しかけてみたが、みんながみんなこんな感じの商売上手で、私が持っていた古きよき少数民族のイメージをかなり壊されてしまった。

それから、最後に見た踊りのパフォーマンスも、それなりにミャオ独自の踊りをベースにしているのだろうが、何だか騙されている感じがぬぐえなかった。観光客に見せるためのショーは、きっとミャオ原始のものとはかなりかけ離れているだろう。




ミャオ族の村二つ目の“苗寨”は、吉首から40数キロ離れたところにある鳳凰という観光地から、更に車で40分ほど行ったところ。徳芬に懲りた私たちは、単に他の見所に行こうと思ってタクシーに乗ったのだが、運転手がミャオ語を話すミャオの村があるというので、出かけていくことにした。それなりに期待しながら出かけたのだが…。

周りが山だらけの山奥にあるゲートにワクワク。しかし、ビックリしたのはそのお値段。ミャオの村に入るだけで、一人88元(学生割引なし)。学食で1週間ゴハン食べられるよ…。憤慨しつつも、気を取り直して村に入る。

ミャオ族の女の子村の門では、青いミャオ服の小学生の女の子たちが15人ぐらい、ミャオの歌を歌って出迎えてくれる。こちらも歌を返さないと通してくれない。村に向かって歩き出そうとすると、一人の女の子が「うちに遊びに来て~」と誘ってくれた。その子と一緒に村の観光業の中心まで行った。お土産屋はほとんどなく、かなりほっとしました。…が、ここからが問題。ミャオの民族衣装を着たおばあさんが、「ミャオの衣装を着て写真とらない?3元だよ。」と誘ってきます。シャンレイは着てみたかったらしく、その弟と3人で着て記念撮影しました。しかし、お金を払おうとすると、おばあさんは、「あなたたちを連れてきた子供は、子供だから値段を知らないのよ。本当は5元。」…え?子供じゃなくて、あなたが3元って言ったんだよ、おばあさん。多分こうやって毎日観光客を騙しているのだろう。一緒に来た子はとても困った顔をしている(別にグルというほどのものでもないのだろう)。子供にあまり醜い争いを見せるのも何なので、適当に払って切り上げたが、この出来事はかなりショックだった。「少数民族ってもっと純粋なものだと思ってた…。」とシャンレイ。外国人は中国旅行でよくこういう目に遭うが、中国人でもやられることがあるなんて…、しかも少数民族のおばあさんがこんなやり方をするなんて。

ミャオ族の村の風景
ショックを癒すべく子供と話をする。二人の女の子が、家に来てと誘ってくれるのだが、よく聞くとバスに乗らなければいけない更なる山奥にあるらしく、ちょっと時間的に無理。それではということで、学校に連れて行ってもらった。

学校は別に特徴のない田舎の学校。通っているのはみんなミャオ族だそうだ。聞きそびれたが、普通語で授業を受けているのだと思う。


小学校の前で
左の子は4年生。右の子は6年生。4年生は80人ぐらいで2クラスと人数が多いそう。小さな村だが、少数民族は計画生育が緩いこともあって、子供の数が多く、村も子供だらけ。

夏休みの校庭で二人とひとしきり話をする。完全に普通語を理解しているし、会話はまったく問題なかった。

「大きくなったら、何になりたいの?」「お医者さん」「私はね-、歌手。」「どうして?うーん、お金かせげるから。」「この村には診療所があるの?」「うん。あの辺り。」「一番悪い病気は何?」「(一生懸命考えて)風邪!」
話しながら、時にほっぺたを膨らましたりちょっとはにかんだりするのがそれはそれは可愛らしく、このまま連れて帰りたいと思うほど。

最後に私のリクエストにこたえて、ミャオ語の歌を歌ってくれた。(本当は動画をアップしたいのですが、何度やっても失敗するので、今度うまく出来たらアップします。)この歌は、「遠いところをよく来てくれました。ここには何もおもてなしできるものはないのですが、この歌を歌ってあなた方への歓迎とします」という意味だそう。

その後、村で割合良く保存されているベランダがある家に連れて行ってもらった。3階では、おばあさんが機織をしながら、ミャオ服を売っている。観光客は少ないらしく、おばあさんものんびりしたものである。シャンレイは、おばあさんが持っていた「太平天国」の古銭が気になったらしく、値段を聞いている。しかし、言葉が少ししか通じず、結局女の子がミャオ語で通訳していた。小さな女の子が話すミャオ語はとても可愛い!ミャオ語はちょっと唇をとんがらす感じで「アニョ、モゴモゴ…」と声を出す、ペタペタした感じの言語。シャンレイの家が曾祖母の代にはもう忘れていたというミャオ語を聞くことが出来た。

こんなに可愛い娘か孫娘いたら、毎日が楽しくて仕方ないだろう。写真を送ってあげる約束をしたので、写真を送るときには、勉強道具やおもちゃなんかも一緒に送ってあげたいと思う。

このミャオの村でも、観光客向けのショーをやっていた。内容は徳芬でみたものとほとんど同じだった。太鼓を敲きながら踊るのはミャオの伝統的なものらしいが、例えば、どこでも「観客も一緒にやってください」と誘われる竹とび(二人が両手に長い竹を持って、リズミカルに開いたり閉じたりしているところをその間で挟まれないように飛ぶ遊び。日本でもある)などは、昔台湾の民族村でみたこともあって、これは単にどこでもやっているのを真似しているんだろうなーと冷めた目でみてしまう。

もちろん、少数民族の踊りを観光資源として活用することで、若い世代が民族の踊りを積極的に学び、その文化の保護につながったり、得た観光収入が村の生活を豊かにするのであろう。しかし、その一方で、観光客が運んでくるいろいろな意味で不純なものが少数民族の純度を下げてしまうのがはっきり分かる。観光客として村を訪れる私の行動が、「少数民族はそのままであって欲しい。純粋であって欲しい」という私の願いを打ち砕いてしまうのである。私の「少数民族は純粋だ」という前提もあるいは間違っているのかもしれないが…。

歴史の流れの中では「変わらない」ことは土台無理なことなのだろうか。或いは、「変わらないことは良いことだ」で、という私の考えがあまりにもナイーブなのだろうか…。

愛しの少数民族

前にも書きましたが、私は非常に少数民族に興味があります。これは多分、小さい時に父に連れられて行った、タイのチェンライ、チェンマイの山奥の少数民族との出会いが影響しているのだと思います。微かな記憶の中に、山奥に急に開ける美しいケシ畑(麻薬を作って売っていたのです。)やその近くに暮らす少数民族らしき人の影があります。林の中を色とりどりの衣装の人々が歩いています。でも小さい私にはその人たちがどういう人か、よく理解できないのです。その人たちに混ざってみたいと思ったのですが、それは出来なくて…。とても不思議な気持ちが残りました。

小さい頃に感じた、不思議なものにもっと触れてみたいという欲求をかなえるため、あの頃入りそびれてしまった、異世界の扉の向こうをすこしずつのぞいてみたいと思います。

私はあと1年の留学が終わるまでに、中国56民族の半数、つまり28民族と会って話しをすることを密かな目標にしています。が、これは客観的にかなり難しそうな目標です。今まで会った民族を数えてみると…、会った順に、漢族、ウイグル族、回族、満族、モンゴル族、チベット族、朝鮮族、ミャオ族、ペー族、ナシ族、チャン族、トゥチャ族、とたったの12民族です。特にこの1年では5民族しか増えていないことを考えると、あと1年で16民族に会うのは、民族学院とかに通わないかぎりかなり難しいでしょう。

でもまあ、目標があれば行動にも反映されるでしょうから…、辺境の地に行った際には、根気よく、愛する少数民族を捜し求めたいと思います。

さて、中国には、56の民族がいるとされていますが、人口の9割は漢族で、残りの1割に55の民族がひしめいているのです。ただ、中国全体の人口が多いので、「少数」民族とは言うものの、かなりの人口を擁する民族もいます。1990年の統計で、一番人数が多いチワン族が1556万人、私の友人が属するミャオ族も738万人です。古い統計なので、今はもっと数が増えているでしょう。モンゴル族や朝鮮族など、国境のあちらとこちらに別れて住む民族も、中国という国家の枠の中で相対的に「少数」だというだけで、民族という単位で数えれば、それはそれなりに大きな数になるでしょう。

中国の少数民族、というと、雲南の山奥の少数民族を思い浮かべがちですが、実は主に新疆に、オロス族(つまりロシア族)、キルギス族、タジク族、カザフ族のような中央アジア系の民族も多くいます。会って話しをしてみたいものです。

多くの少数民族と出会うことで、中国という国を別の一面から学ぶことができるでしょう。

湖南と広東の旅

7月6日から約3週間の旅に出ています。

大学のクラスメートのシャンレイの故郷・湖南省湘西自治州を訪ねて、修士論文用の調査をするのと、その後、7月20日から父と一緒に、広東省の潮州地方を中心に旅行してきます。潮州は東南アジアに多く華僑を出したところで、こちらはどちらかというと父の行きたいところに一緒についていく感じです。

この4日間だけでも、素晴らしいことがたくさんありました。私は少数民族がとても好きなのですが、湘西でミャオ族の村を訪ねることができました。まあ、かなり商業化されていましたが・・・。(湘西では人口の半分ほどが少数民族で、私の友人もミャオ族なのですが、)友人は一緒に行ったミャオ族の村があまりにも商業化されていて、本当にショックだったそうです。とはいえ、とても可愛いミャオ族の女の子が、村の中をあちこち案内してくれました。シャンレイの家は、何代も前にミャオ語を忘れてしまったそうですが(とても悲しいことだと思います。)、村の中でおばあさんと女の子がミャオ語で会話しているのを見るのは、感動的なものがありました。

書きたいことはいっぱいあるのですが・・・、田舎でインターネットが安定しないので、帰ったらゆっくり書きます。