「今日のコンサートのあと、Kitoさんの店に行くんですけど、一緒にどうですか?」
I君にそう誘われたのが、店に行った最初だった。

2013年に単身赴任で東京に来たことから、ハロプロの現場に頻繁に通うようになった私は、Facebook のハロプロ関連のグループに入って、書き込みもするようになった。Facebookで知り合った人と現場で会い、それがきっかけでハロヲタ仲間が広がっていく。相棒のように一緒に現場に通うことになるNさん、地方から出てきたイケメン青年のS君、意外と古参で真面目な若者のI君、そして、関内駅の近くで焼き鳥の店をやっているKitoさん。
ハロプロの中では℃-uteが特に好きな面々で、Kitoさんは矢島舞美ちゃんのファンだった。
そうして多くの出会いを広げながら、ヲタ活を楽しんでいた私たちにとって、Kitoさんの店はホームだった。

昔バンドでギターを弾いていたというKitoさんは「若い頃はちょっとヤンチャで、テクのあるギタリストだったんだろうな」と感じさせる雰囲気を纏い、読書家でもあったので、共通の話題には事欠かなかった。
焼き鳥の店と書いたが、Kitoさんの店はいわゆる「赤ちょうちん」ではなく、オシャレなお店で料理は絶品、通をうならせるお酒を揃えた、大人がゆったりと寛ぎ、ちょっと贅沢なデートも楽しめそうな、知る人ぞ知るお店だった。Kitoさんは職人気質のオーナー店長として、一人でその店を切り盛りしていた。

しばらくして、営業時間後にKitoさんのお店を提供してもらい、オールナイトでハロヲタを集めたパーティをやるようになった。男女の参加者が、年齢も、職業も関係なく、お気に入りのハロプロ映像を流して、たこ焼きを焼いたり、Kitoさんが作った料理をあてにお酒を飲んでみんなで騒いだり、ハロプロ談義を交わしたり…、今考えると、夢のような時間だった。「委員長」という私のアカウント名もそこで生まれた。

℃-uteが解散すると、興味の対象もそれぞれに分散していき、初期のメンバーが現場で一緒になることも減っていった。Kitoさんはアプガ(2)に行きつつ、吉川友が主現場になった。
それでも、横浜方面でハロプロのコンサートやイベントがあった後は彼の店に行き、パーティも続いていた。そんな時間がずっと続くと思っていた。

ある日、店に行くとKitoさんが首に変調があると言った。その時は「お大事に」と軽く声をかけたが、しばらくして、それがステージ4の癌だったことを聞いた。
結果的に最後となったパーティの後、新型コロナウイルス感染症が拡大…、その中で時間が過ぎていった。
Kitoさんが店を閉じる直前、仲間たちと一緒にやっと店を訪問することができ、彼が集めていたブロマイドやグッズをみんなで分けてもらった。彼が集めた思い出とともに…


昨日、そんなKitoさんのFacebookへの書き込みがあった。

2019年夏前に癌と診断されてから、家族親族や友人知人、特に同級生達から、癌治療に必要な知識、支援、時間など、多大な協力や励ましありがとうございます😊
感謝しかありませんが、現在、緩和ケア施設に軟禁状態で、外出すらできないという、この状態となってしまっては、何も返す事ができないと思い悩み、今年に入ってから、手元にあるスマホだけで作曲出来る事を知り、「元バンドマンとしては、これしか無い!」と、一念発起し感謝の気持ちを一曲にしてみました。
楽器を弾く方がもちろん簡単だったのですが、手元に無いので潔く諦め、健常時には絶対にやらないであろう「スマホアプリで、ギターやベース、キーボードを楽器代わりに弾く練習をし、ある程度使いこなし、編集作業まで全て仕上げる。」と言う苦行を乗り越え、理想には程遠く、妥協だらけですが、手指が痺れ、肩が上がらず、勝手のきかない状況なりに、何とか完成させました。
わたしの声がスムーズに出ないかつ、手元に楽器の無い状態で、音符に歌詞をのせる譜割りを伝えるのも、非常に難しい作業の一つでした。
わたしに残された時間のない中、歌のせや編集作業を最短で手伝ってくれた方々にも感謝します。
わたしには全く何も反映されませんが、再生回数が増えたり、高評価ボタンやコメントしていただけると身バレを嫌う謎の歌唄いたちの励みになると思います。
たくさんの方々の心に響く一曲となってくれると、わたしも頑張ったかいがあり、嬉しく思います。

 

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作詞 hiroshi kito
作曲 hiroshi kito
編曲 hiroshi kito