アメリカはカンボジアの悲劇をもたらした張本人 | Ryocky's Blog

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カンボジアではかつて、ポル・ポトを中心とした共産主義勢力による国民の多数が殺害されたという悲しい歴史を持つ国だが、それを許したのはベトナム戦争を引き起こしたアメリカだと言うことを忘れてはならない。

 

アメリカがベトナムの共産主義打倒の目的で1960年代から75年にかけて行われていたベトナム戦争。その戦争は平和だったカンボジアも巻き込んでしまったのだ。

 

1953年、シハヌークの強い独立運動により、フランスから完全独立。カンボジア王国が建国される。以降シハヌークは国民の絶大な支持と尊敬を集めることになる。

1960年にはシハヌークが国家元首に就任、外交面では中立政策を保持し、冷戦の続く中、東西陣営から援助を引き出すのに成功した。その結果、カンボジアはめざましい経済発展を遂げた。

その頃から、シハヌークは中国や朝鮮共和国などの共産主義国との関係を強化する。

建前では中立を保持していたが、事実上はアメリカやタイ、南ベトナムと断交するなど東側寄りであった。そのことが反共のアメリカの神経を尖らせ、シハヌークを厄介な存在と決め付けた。

その頃から政界で親米の右派と共産主義などの左派の対立が絶えなくなり、必要に応じてシハヌークは左派の人間をジャングルに追放した。

 

そして1970年、アメリカ主導によるロン・ノルらによるクーデターにより、シハヌーク休暇中に彼の国家元首の解任を決定。

王政を廃止し、国名も「クメール共和国」に改名、ロン・ノルは大統領に就任する。

大統領に就任するや否や、ロン・ノルはアメリカ軍がカンボジアに入ることを許し、これまで平和で幸福だったカンボジアもベトナムやラオスと同様に戦火に巻き込まれることとなる。

帰る場所がなくなったシハヌークは中国への亡命を余儀なくされる。

ロン・ノル政権軍は共産主義勢力殲滅の目的で農村を無差別に空爆。しかし死亡したのは大半が共産主義とは関係のない農民であった。

農業ができなくなってしまった農民は、プノンペンなどの都市への移住を余儀なくされ、ホームレスが激増。内戦前まで食料の生産が盛んで輸出国であったカンボジアも、他国に食料を頼る輸入国に転落してしまい、食料の価格も高騰してしまう。

一方、シハヌークは中国の仲介により、これまで敵対関係だった共産主義勢力と和解する。目的は政権を奪い返すためのものだったが、そのことがカンボジアにさらなる悲劇をもたらすことになるとは誰が予想したであろうか。シハヌークが追放した共産主義勢力は中国の協力の下、戦力を上げていくことになる。

ロン・ノル政権にとって大打撃となったのは、1972年のアメリカが中国と関係を改善したことであった。それ以降アメリカのカンボジアに対する軍事支援は中止。ロン・ノル政権はますます苦境に立たされ、共産主義勢力の勢力は日に日に拡大していった。

 

そして1975年4月17日。最悪の日がやって来た。

ロン・ノルは亡命、クメール共和国は崩壊。プノンペンにも共産主義勢力が入る。

当初はプノンペン市民は歓迎していたが、その喜びもつかの間であった。

共産主義勢力は市民に対してプノンペン市内からの退去を命じ、従わなかった者を問答無用で射殺。市民を農村に強制的に移住させた。

国名も「民主カンプチア」に改め、ポル・ポトが最高指導者に就任した。

共産主義勢力は国民を旧人民と新人民に分け、新人民は旧人民に従わなければならないと命令した。旧人民は特権を受ける者が多かったが、新人民は共産主義建設を妨害するだろうと嫌疑をかけられ、多くが犠牲になった。

また国内各地にサハコー(中国の文化大革命の人民公社に相当する)という強制収容所を各地に建設、国民を強制労働させ、従わなかった者は問答無用で殺され、強制労働に耐えられなくなった者も栄養失調により多くが餓死してしまった。

資本主義的なものは一切否定され、ロン・ノル政権の政治家はもとより、これまで国内の発展に貢献していた資本家、公務員、教師、医師、僧侶、芸術家などの殆どが殺害され、資料も大半が焼却され、貨幣も廃止された。

それにより、長い歴史に育まれてきたカンボジアの社会基盤は大打撃を受けてしまった。

都市生活も否定され、プノンペンなどの大都市もゴーストタウンと化した。

外交面も西側の資本主義国はもとよりソ連やベトナムなどとも同じ共産主義とはいえ「修正主義」だということで断交し、かつてより関係の深かった中国や朝鮮共和国との関係を強化していった。

末期になると、新人民はもとより、当初優遇されてきた旧人民も共産主義の失敗の責任者の嫌疑をかけられ、多くが殺害された。

その粛清の嵐は、1979年1月7日のベトナム軍侵攻により民主カンプチアが崩壊するまで、止むことはなかった。

 

民主カンプチアに代わって政権を握ることになったのは、かつての共産主義勢力の暴政に耐えかねてベトナムに亡命し、ベトナムと手を組んだヘン・サムリンをトップとする「カンプチア人民革命党」であった。

国名も「カンプチア人民共和国」に改名、中国・朝鮮共和国以外のソ連をはじめとする共産主義国との関係を強化していった。

ポル・ポト時代の凄惨な大虐殺が明るみに出て、政権崩壊まで知られることのなかった民主カンプチアの暗黒の歴史が国際的に知られることになる。

しかしアメリカや中国はカンプチア人民共和国を「ベトナムの傀儡政権」と見なし、国家として承認せず、国際連合の代表はゲリラとなった民主カンプチアのままであった。そのため、ポル・ポトの共産主義勢力は1993年の王制復活まで国際的批判を免れることになる。

結局、カンボジアの国際社会への復帰は上記にも既出の1993年の王制復活を待たなければならなかった。

 

今のカンボジアは平和で経済も発展を遂げているが、一方でポル・ポト政権時代の大量虐殺が現在まで尾を引くところもあり、治安の改善や教育再建、地雷の撤去など解決すべき問題も少なくない。

誰もが、カンボジアに悲劇をもたらした元凶はポル・ポトの共産主義勢力と思っているようだが、ポル・ポトではなくアメリカだ。アメリカが1970年にシハヌークを追放し傀儡政権を建てていなければ、いやそれ以前にベトナム戦争がなければそのようなことにはならなかった。ベトナム戦争はベトナム・ラオスはもとより、カンボジアにも悲劇をもたらしたのだ。

残念なことに、アメリカは現在もカンボジアの悲劇と同じようなことを再びよみがえらせている。イラク戦争しかり、リビアのカダフィ政権打倒しかり、そして現在も進行形にあるシリアの内戦における反政府勢力支持もしかり。アメリカの戦争犯罪にはきりがない。

アメリカはこれまでの戦争という野蛮な道を捨てて、過去に自ら行った戦争によってどんな災禍がもたらされたかということを知り、平和という文明のある道を進まなければならない。