「女生徒」を読んだことがなくても分かる内容になっています。
うつ病患者である僕が書いた太宰治「女生徒」についての読書感想文です。


55ページに、主人公へ「いとこの順二さん」から聯隊へ転任することになったという手紙が届く場面がある。その手紙から主人公は、「将校さん」について色々想像を膨らませる。「いつも身が、ちゃんちゃんと決っているのだから、気持の上から楽なことだろうと思う。」「うんと固くしばってくれると、かえって有難いのだ。」主人公によると、「いやらしい、煩瑣な堂々めぐりの、根も葉もない思案の洪水から、きれいに別れて、ただ眠りたい眠りたいと渇望している状態は、実に清潔で、単純で、思うさえ爽快を覚える」らしいのである。この、主人公が思案する場面から、私は太宰らしい「生き辛さ」のようなものを感じるとともに、共感の気持ちを覚えた。なぜか。それはここ数ヶ月の私の生活と大いに関係してくる。
 なぜその部分に共感したかということを説明するために、私のここ数ヶ月の生活の変化について書く。私は今、受験生である。大学受験を迎える年度を受験生の期間とするなら、私は2020年の4月から受験生であり、それは今も変わらない。しかし実際の生活は大きく変化した。うつ病の発症のためである。新型コロナウイルスの影響で5月ごろ休校になり、私は自宅の自分の部屋で一人で受験勉強をしていた。勉強で忙しいとはいえ、一人の時間がかなり増えたことで、私はどうやら「根も葉もない思案の洪水」の中に投げ出された様であった。いわゆる「コロナうつ」というものか知らないけれど、そのような感じで私は精神異常をきたしたようである。頭の中が明らかにおかしいと思い、精神科に行くとその病名を言われた。6月の始めのことである。それから私の生活は一変した。勉強がかなりのストレスだったことから、勉強をいったんお休みすることになり、さらに思案の時間が増えたのである。これはまさに「女生徒」の主人公と同じ状態であり、主人公が考える「将校さん」の状態の逆である。
 そこで私は大いに悩むことになる。勉強で忙しく、心を無にして一心に何かを求めて努力していた5月までの自分、つまり「将校さん」の状態が自分にとって良いのか。それとも、一人で過ごす時間が増えたことと勉強をお休みすることになったことで思案することが極端に多くなった6月の自分、つまり主人公の状態が自分にとって良いのか。私は今だにこの問題で悩んでいる。
 前者の自分は機械的である。自分や、自分の人生について、自分の生きる意味について考えることはほとんど無いだろう。その暇が無いからである。必死に、何かに向かって努力している。5月までの自分の場合、それは志望校の合格であった。行きたい大学に合格するため、自分に何が足りないか考え、一心に勉強していた。努力するのは辛いが、生きる目的を探した結果何も見つからなかった時、それで死を望んだ時に比べればどれだけ幸せな状態だろうか。幸せというべきか、ただ楽なのかもしれないが。
 一方、後者は人間的である。「人間は考える葦である」という言葉がある。まさに考えている状態である。6月からの自分の場合、自分の生きる意味などを考えていたような気がする。探しても見つからなかったので今はやめているが、それでも何が楽しくて生きているのかなど、考えると辛くなるような事を日々考えている。思春期だから仕方ないと思われるかもしれないが、私は太宰の文学から読み取れる「生き辛さ」のようなものを考えると一生考えることに苦しまされる気もしている。考えることは人間的であるが人生を辛いものにしてまで考える必要があろうかと思ってしまう。
 このようにして私は二つの生き方で迷ってしまうのである。今は後者の生き方をしている。「女生徒」の主人公のような生き方である。だから私は主人公に共感した。「将校さん」のような生き方がうらやましいと言う主人公の気持ちが分かった気がした。私は今だに悩んでいる。機械的であるが楽な「将校さん」の生き方か、辛いが人間的である主人公の生き方か。