出会いは魔法!つなげて起きる「ごきげん」ネットワーク
こんにちは
本日の夢プロジェクトインタビューは
の鈴木安子さんです。
「つながり」を大切にした安子さんの元には、コーチ業界の大物コーチが
たくさん集まっています。
今回、鈴木安子さんが持つ社交性・コミュニケーションの強みを存分にインタビューさせていただきました。
待ち合わせの喫茶店で会った時から楽しいお話が全開で、大変だったころの話もなぜか明るく聞こえるインタビューでした。
私は、1997年にコーチングに出会い、2000年にハートフルコミュニケーションに出会いました。
そして2002年、どの瞬間もごきげんでいられる自分づくりを分かち合いたいとごきげんコーチングとして独立しました。
今は「ごきげん」をどのようなきっかけでもよいので広めていきたいと考えています。
このごきげんネットワークでは、働く女性や社会との接点を見つけたいと思っている女性を応援したいと考えています。
女性には、果たすべき様々な役割があります。そんな忙しい毎日の中で、何かやってみたいと思ってもつい後回しにしてしまったり、やっぱり無理だとあきらめてしまったりすることはありませんか? その前に「やってみたい」という思いの存在にすら気づかないなんてこともあるかもしれません。
生きているすべての瞬間がキラキラと輝くような、そんな「ごきげん」を多くの女性が手に入れるために、いつでも覗いて立ち寄れる場所作りをしたいという思いがベースになっています。
「もしかしたら私にもできるかも…」というつぶやきが「私にもできた!」の声になる、その声をたくさん聞くことが私の夢です。
~以上 ごきげんコーチングHPより抜粋~
私の人生の中では後悔は無いですね。
そこでできる事を精一杯やって自分で選んできた事が後悔にならないのだと思います。
もちろん失敗はたくさんありますよ。
後悔が無いというのは、あー、失敗しちゃったというのをプラスに変えられるからだと思います。
私の父親は14歳で他界したのですが、そこで父親が良かれと思って敷いてくれたレールから外れる事ができた事である意味人生観が変わったのだと思います。
母は、家計管理を全く知らず、入ってきた収入をそのまま使っているような生活を
していました。
父の死後清算をすると残った資産は家と20万円のみ。
生命保険にも入っていない状態でした。
母は嘆いている間もなく、必死で働いて私を大学まで出してくれました。
父は母とは再婚で、18歳の年齢差がありました。
このため、私は子供の頃は割と裕福な生活をしていたのです。
小さな頃の写真は母とおそろいのフリフリのお嬢様の洋服を着て、豪華なホテルで映った写真等が残っています。
夏はとても豪華な旅行、翌年はバンガローでキャンプ等いろんな生活があり、そしてそこでは人を差別してはいけない事を父から教わったように思います。
父の口癖は、「これからの時代の女性は日本のような狭い島国にいちゃいけない」でした。
小学校の一年の頃には、父と母が二人で1週間も旅行で家を空けた事もありました。
その直前に当時20万円もする最新のレンジが家に届き、
「こうやって食べ物を温めるのだよ」
と教えてくれました。
そして、「毎日夕方8時に電話するから」
と2人で旅行に出かけてしまいました。
正直その時は不安とスリル満点で泣きそうだった記憶もありますが、今思えばこのことで私は自分の人生の一歩は自分で踏みだすことができるんだよ、ということを教えてもらったのかもしれません。
そして更にこんなこともありました。
それは中学1年の秋のことです。
ある日の夕食時、「安子、今年のクリスマスはハワイに行きたいか?」と聞かれました。
『ハワイ? うんうん行ってみたい』
普通そう言われれば家族みんなで行けるのかな、と思うじゃないですか。
ところが全く違ったんですよね。
次の日曜日、旅行の説明会があるからと言われて喜んで着いていった先は同じような中高生100人位集まっている部屋でした。
父は「じゃ、あとでくるから」とスタスタどこかへ行ってしまい、結局わかったのはハワイ行きというのは私1人で参加する2週間の体験プログラムだったのでした。
今思うと父が作ってくれた環境は私にとても影響しているように感じます。
企業の人事のトップをしていた父は、たくさんの人を家に連れてきました。多くは飲み会と化してみんなで大騒ぎなんてこともありましたが。
ただその一人ひとりに対して居心地の良い空間を作っている、そんな父でした。
高校の受験勉強中だった年の6月、父に癌が見つかりました。
そのまま9月に父が無くなり、私の人生観は一気に変わりました。
父の死はあまりにも突然で14歳の私にはショックなことでした。でも2階のベランダから星空を見つめて思ったことは、「この経験をいつか絶対に自分の肥やしにしてやろう」
ということでした。
この体験はいつか役立つと思いました。
この時から私は自分で選べる人生を手にしたように思います。
42歳で未亡人になり、必死で働く母には心の支えがほしかったのでしょう。この時期に彼ができました。
母親とのつながりは変わらないものの、この時から母を一人の女性と見るようになりました。
私は自立できる環境がそろっていたのです。
母とはもたれあう関係ではなく、分かち合う関係になりたいと思いました。
高校では卓球部に入りました。
15人の小さな部で、2台の卓球台を使って練習していました。
上級生は3人とも理系に進学した事もあり、私が2年生の時に卓球部長になりました。
1年生が入学してきた時、私は他の部活の3年生の部長に交じって2年生で卓球部の紹介を行いました。
その部活紹介がとてもウケたのですね。
今までシーンとなっていた部活紹介が、一気にドッと笑いが起きました。
その効果か、400人の一年生の中で40人が卓球部に入ったのですよ。
もうそれからは大変でした。
2台の卓球台をどうやってまわそうか?
階段使って練習をして、
合宿所も今までの所は使えないし、
バスをチャーターした方が安上がりだし、
というような、いわば卓球部の運営を私と副部長とマネージャーとの3人でしていったのだと思います。
結構大変でしたが、それなりに充実感もあったんですね。
ところが、3年の夏の試合で引退をしたあと、ちょっとした事件が起こったのです。
それは夏休み明けの9月、1年2年の部員が半分辞めっていってしまったことです。
新しい部長は私のところにきて言いました。
『私はエッコ先輩のようにはできません』と。
(※エッコ→当時の愛称)
私は辞めた人の元にとんで理由を聞いたりしました。顧問の先生にも相談しました。
そして結果的には部長は続行。残った人たちで卓球部は続きました。
そして卒業式の日、顧問の先生に挨拶をしに言ったときこう言われました。
「エジリお前はよくやった。ただ1つ今後に課題を残すとしたら、それはお前がいなくなっても変わらず活気が保てるような場をつくっておくこと、そのためのリーダーを育てておくことだ。頑張れ。」
この言葉は大きかったです。そして後々の私の活動に大きな軸をもたせていただきました。
例えば生命保険会社勤めたとき、指導する立場になってよく口にしたことは、
「早く自分のオリジナルのスタイルをつくりなね。人にはそれぞれのやり方があっていいんだから。だからこれはいいな、と思ったことはどんどん取り入れて早く自分スタイルを確立したほうがいいよ。」
生保に入る前には、派遣の社員をしていました。
最初は3人の会社で私は電話番として入った会社でした。
ちょうど派遣法が出来上がった頃で、会社が一気に大きくなった頃でした。
そこで私はコーディネイターとして登録社員と企業をつなげる仕事をしていました。
5年目働いたのちに結婚をして、しばらくした時に
「ずっと続けられる仕事でしかも自由に動ける仕事はないか」と思っだのです。
そしていくつかの会社に転職活動をしていました。当時、行こうかどうしようかと迷っていた会社を結局断った日の晩に、ほんとたまたまその晩にですよ、数ヵ月ぶりに一度はお断りを入れた生保の方から電話がかかってきたのです。
「安子さんだからやってほしい事がある。これが最後のお願いだ。うちの会社に入るか入らないかは、この人に会ってから決めてくれないか?」
その人は私の生保のイメージを根本から覆す人でした。
生保ってこういう売り方もあるのだと思いました。
私も生保のイメージをばかにしていた事もありました。
私の自我の強みをくすぐったのですかね?
この地域を担当できる、誰でもよいからという募集では私も心が動かなかったと思います。
これからは女性で企業の人と渡り合える人を育てていきたい、中小企業の社長とキチンと話せる人、ミドル企業に新規開拓ができる人を求めている、安子さんの力を貸してほしい、鈴木安子を生かせる場所を用意するという言葉で、私を高く評価していただいた生保で働く事を決めました。
生保では3ヶ月目には新人リーダーとなりました。
生保を売る女性は色々な人がいるのです。
「今日何人お客さんと会った?」と聞くと「ハッ」とした顔をする人もいます。
普通の主婦から生保に入る人もいるので、「洗濯物を干す事で遅れた」とかいう人もいます。
中には営業成績がなかなか上がらない人もいます。
言葉をかける事が苦手な人には、
「お昼にどこかうどんのおいしい所はありますか?とだけ聞いてごらん」
と伝えています。
そして「食べ終わった後においしかったです」とお礼を言いに行きなさいと伝えています。
話ができるというきっかけが大事なのです。
電話がかけられる関係性が大切なのです。ラポールを大切にする必要があります。
生保はその人にとって必要なものを提供するのです。
ご縁をいただければ声をかけてほしいという人をどれだけ集められるかなのです。
私はいつの間にか生保レディというよりライフプランナーとしての仕事に自信をもって働くようになっていました。かかりつけの医者になりたいと思ったのです。
保険は誰のためのものか、誠意をもって考えればあきらめない限りできる仕事だと思います。
保険はその人の人生を見る仕事、その人のバックグラウンドはどこにあるのかを見る事が鍛えられました。
新人リーダーは40代の人がやるような仕事でしたが、会社を代表するようなメンバーの中に私が混じって支社の代表として行ったりもしました。
そんな中、子供ができたのですがちょうどその時風疹にかかってしまったのでその子とは会う事ができませんでした。
外に出る仕事だったから、風疹になってしまったと自分を責めましたが、
自分で選んだ事だから仕方がないと思いました。
ただこのまま仕事を続けるか否かは迷っていました。そんな時、あの熱心に誘ってくれた上司が上野から1時間かかる私の自宅まで抱えきれないほどの果物と給料明細を持って来てくれたのです。
私あんなに大きな果物初めてみましたよ。
最初ドアを空けた時に、その人の顔が見えないんです。
そして言ってくれました。
「いつでもいいよ、席は用意してあるから」
管理職として復帰、現場での部下を持ちながら必死に仕事をしていましたが正直ヘトヘトでした。咳が止まらず、37.5度の熱も半年続きました。
夫の両親は、そこまでして働かなくてもと思っていたと思いますが母の病気でお金が必要だったこともあり収入が必要でした。
その時に受けたコーチングが魔法のようでした。
周りは全く変わっていないのに、朝が軽かったのです。
2年ほど考えた後会社を辞めコーチとして独立することにしました。
当時はコーチングが日本に入ってきたばかりの頃でした。
私にできるものなのかと、最初は20名程無償でコーチングを開始しました。そこで気づいたのですが私は人の話を一方的に聴くというのは厳しいと感じました。
コーチングを行うのであればコーチ自身がよい状態で無いと成果が出ないと思いました。バランスを取るためにも週3回は話したいなと思いました。
私はいつも、あったらいいな、できたらいいなと思う事を人に話します。そして、できる事から一つずつ行動に移していきます。
この時出会った人との会話の中で、「安子さんは営業ができるのですよね。話す場を欲しいのであればうちの社長を紹介しますよ」と言っていただきました。
その方は、企業に研修を売る仕事をしていました。週三回話す機会を求めていた私は、その研修を売る仕事を行う事で話す機会をいただきました。
10月、社長がコーチングの研修を売りました。私はどんな人が講師をするのだろう?と「誰が講師をするのですか?」と尋ねたら「安子さんしかいないでしょ」と言われました。こうして私のセミナー講師デビューが決まりました。
この事をハートフルコミュニケーションの菅原さんに話した所、2日後に菅原さんが行っている研修のアシスタントとして参加させていただく機会をいただきました。
ちょうど生命保険の会社に向けたコーチングのセミナーで、デモンストレーションの手伝いなどを行いました。
そんな中、12/23 に営業の手伝いでカレンダーを両手に持っていた時バスのステップを踏み外してしまい、顔から地面に落ちてしまいました。
顔の左半分はお岩さんの状態です。
左のほう骨も凹んでしまう勢いでした。
カレンダーは無事でしたけどね。
実は私は難産だった影響で生まれつき右目の視力がほとんどありません。左目に眼帯をしたら全く人前に立てない状態になってしまいます。
折角講師として前に出るチャンスを得ながら、このまま人前に出られないのではないかとさすがに落ち込みましたが、ほぼ3日でほぼ立ち直りました。
これはあの時、そう父を亡くしたときと同じ感覚です。
これを私のこやしにしてやる、と思ったことです。
そう思うと行動開始です。
サングラスをして、マスクをした状態で年末のスーパーにも買い物に行きました。
結構もうすごい格好なんですよ。
真っ黒のサングラスに淵からみえね青あざ、それでマスクでしょう?
そんな出で立ちで7歳の娘を連れて歩くと、周りがささやくのです。
「見てみてあの人の顔?」「駄目よ、見ちゃ」
親子の会話です。そう言った会話があちこちから聞こえてくるんです。
私は思いました。
はじめからハンディを背負った人はこのささやきをずっと聞いていくんだなと。
いやーそうなったら心は凹むよなと。
お陰様で私はきれいになくなったのですが、この経験できたのは良かったと思いました。
人の可能性を引き出すためには、こういった体験は大切だと思います。
3日で立ち直れたのは、起っちゃった事は仕方がないと考える適応性だと思います。
どうしても3日の間にはそのシーンが何度も出てくるのです。
頭の中で再現してしまうシーンからは出られないのですが、そこでどうしようとは思わないのです。
その感覚と共にいて、あるがままにその感覚を味わうのです。
何度も何度も同じ事を思い出すと3日も経つと嫌になります。
そこでスイッチを切り替えるのです。
「これを何とかできないか?」
というスイッチです。
そこで、「よっしゃ、私にしか無い経験だ」とスイッチを入れます。
このスイッチを入れらるようになったのは、19歳の頃に同じような状況の時に
「いつまで悲劇のヒロインをやっているの?」
と聞かれた事も大きかったと思います。
この友人により、若いころに切り替える手立てを覚えました。
私の自我は浸っていたい、分かってほしい、という気持ちもあるのです。
悲劇に浸っていると声をかけられるのではないかという期待もあります。
この気持ちから切り換える一言を言ってくれた友人は温かく、ありがたいと思いました。
年が明けて1月6日には、青あざはファンデーションを塗ると何とか隠せるようになりました。こうしてセミナー講師としてのデビューを飾ることができました。
今まで、入口としては派遣・生保・コーチングとバラバラでしたが出口はすべて人をつなぐ事に行きついています。
私は社交性の強みで人のつながりを大切にしています。父から学んだホテルとバンガローの体験、人を差別しない、いろいろな視点を持つという事、これをやって行く中で人とのつながりができていきました。
つなげることとつながること。起こすことと興すこと。
これからもこれはずっと続けて行きたいですね。
私の周りには主婦の方からバリバリの仕事ウーマンもいらっしゃいます。
その人たちと出会い、集まって何かを作り出していくことは大好きです。
あつまれば何かが生まれる、ごきげんになれる活動ができるのです。
だからといっては何ですが、大体私は並行して進めていることは7つぐらいはありますかね。
ミュージックベル隊ノエルズの活動もその1つです。
去年の末、これまでにご縁をいただいた方のご協力を得て、チャリティコンサートを開催しました。
チャリティ先は「 メイク・ア・ウィッシュ 」
「 メイク・ア・ウィッシュ 」とは重い病気と闘う子どもの夢をかなえるボランティア団体です。
2006年、東京本部の大野寿子さんとご縁をいただき講演をお願いしました。
そこでは、人として一所懸命精一杯生きることの大切さや子供たちの夢・笑顔・喜び・小さな奇跡の物語が息づいているということを知りました。
出演者は アカペラグループ『 うみねこや 』 & ミュージックベル『Wasedaノエルズ』です。
今回のこの企画に、クリスマスの一番お忙しい時期にも関わらず喜んで時間を創ってくださいました。
参加費の一部とグッズ売り上げ・寄付金は、「メイク・ア・ウィッシュ」を通じて、難病の子どもたちの夢を叶える為に届けられました。
一人でも多くの子供が、夢をかなえて笑ってくれたら・・・・。
そんな願いを込めて第2回の『クリスマス・チャリティ・ランチコンサート』を2009年12月13日に開催します。
これからもどの瞬間もごきげんになれる自分づくり、それをサポートする活動は続けていきます。
1人1人が「ごきげん」にいきられたら最高だと思いませんか?
このインタビューは、事前打ち合わせや主旨の説明はほとんどなく、ただ「体験談をインタビューしています。」とお伝えして実現しました。私自身、安子さんの適応性を見たかったというちょっとしたいたずら心でした。さすがはコミュニケーションの強みを持つ安子さん、インタビューはどんどん盛り上がり、いろいろなお話をお聞かせいただきました。
私がちょっと分からなかった事に対する説明や例の持ち出し方が抜群に上手で、ここがコミュニケーションの強みなのかと感じました。
安子さんのインタビューの中では、何度もつながりという言葉が出てきました。これは一人ひとりを大切に思う安子さんの個別化が、社交性により広がった結果だと感じました。
そして安子さんの持つ温かさ、優しさ、楽しさで、何か活動をしたいという人が集まってくるのだと感じました。
今まで30名のインタビューを行い、活動内容をPDF にまとめました。
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