マレーネ・ディートリッヒ→アーネスト・ヘミングウェイ | なるべく猟奇に走るなWHO'S WHO

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アーネスト・ヘミングウェイ
は一般に、男性的な作家とみなされていて、それに対し多くのひとが、
「いや、それは彼の一面しか見ていないんだ。短編の繊細さを見てみろよ」などという「啓蒙的な」言説が
数多く存在します。しかし僕としては、こういった擁護?には、やや食傷気味なわけですね。「繊細さ」が
女性の専売特許であるはずもないし、また「男性的」ということでいくと、マッチョな面はもちろんそうなんですが
逆説的に言って、「不能」ということでさえも「男性性」のひとつの表われなんじゃないか、と僕は考えます。
男性の不能=女性的、でないのは明らかだからです。そもそも彼は、オスカー・ワイルドがそうだった
ように、幼少期には女の子として育てられていたそうで、ワイルドが(ゲイであったことを勘案しても)男性的な作家
と思える僕にとっては、ヘミングウェイもまた徹頭徹尾「男性的」です。


で、さっきから不能不能言ってますけど、彼の長編中、最も価値ある作品であろう
「日はまた昇る」が、まさにそれなんで。要は、パリからスペインを旅して
自堕落な生活を送る高等遊民たちのお話ですが、その中で、あまり明確には
書かれてはいないものの、主人公というより語り手が、戦争後遺症による、まさに
不能なんですね(とは言えやはり「男性的」でカッコいいけど)。無論この作品には
闘牛のシーンとか、恋の駆け引きめいたとことか、見せ場はいっぱいありますけど
深読みしてしまうと、これはまさにその「不能」こそがテーマの作品なんじゃないか
と思えたりして(異論は認める)。もひとつ、ヒーローのいない小説、ということも
言えるんじゃないかと思います。
しかし、この処女長編で大評判を取ったあと発表された「武器よさらば」
「誰がために鐘は鳴る」
は、あたかも処女作の反動のような、それこそ
マッチョイズム全開で、悪く言えば通俗的「文学性の希薄な」作品であり、おそらく
これが、世間での彼のイメージを、ある意味決定づけたのかも知れません。
以前にも書いたように、僕は通俗的なのは全然OKなんですけれども、どうやら
ノーベル賞選考委員には、こういった通俗的なのは嫌われるようで、ヘミングウェイの受賞は、「老人と海」などの
作品に対し・・・という但書きがついてました(といいながらパール・バックにあげたりしてるけどね)。そういった
意味では、ここ何作かの村上春樹を読んでると、なんだかあまりに通俗的で、受賞レースではちょっと不利かなあ
と思うわけです。どーでもいいような余談ですが。
ただそれでもやはりと言うか、マッチョな彼の作品は、ハリウッド関係者には大ウケで、後にゲイリー・クーパー
大スターを起用した、安直なヒロイズムの娯楽作品として映画化されたのでしたが、出来はというと、そこはそれ・・・

またまた余談ですが、数多い彼の映画化された作品で、僕にとっての
ベストが、ハワード・ホークス「脱出」を別格とすると、だいぶ
脚色はあるものの、ドン・シーゲル「殺人者たち」ということ
になりますかしら。大傑作。必見。これの原作である短編「殺し屋」は、
いわゆる「ニック・アダムスもの」のひとつなんですが、長い期間を
かけて発表されたこれらの連作短編は、彼の分身たるニックの、いわば
成長物語のようでもあり、風変わりな自伝のようでもある。マッチョ成分は
稀薄で、ファンが彼のデリケートな側面を称揚するのも、これらすぐれた
短編群あってのことでしょう。

代表的な(というか僕の好きな)やつは、戦争でPTSDを背負って帰還したニックが、
大自然の奥地でキャンプして鱒釣りをし、それを捌いて食う、というそれだけの話
「二つの心臓の大きな川」です。他に何が起こるということもなく、革命的
と言われたその文体、短いセンテンスで、登場人物の内面はまったく描かれず、
ただただその一挙手一投足が淡々と綴られます(「客観描写」ってやつね)。
で、それがつまんないかというと、そんなことはまったくなくて、思わず息を呑んで
読み進んでしまうんですね、これが。これで小説なの?とか説明が少なくてなんか
わかりづらい、なんて読者もいそうですが、これがまさに「文学的なヘミングウェイ」
なのだと思われ、また、パリ時代のものでは、女性の心情を繊細に描いた作品も
いくつかあったり、など非常に興味深いですね。これら短編を読むことなく、彼を
理解することは不可能、という見解に、僕は100%同意します。

ところで、もしかすると、その作品を読んだことのないひとでも、趣味人としての
彼をイメージしがちなのかも知れないんですが、とにかく多趣味には違いない。

狩猟・釣り・闘牛・ボクシング・酒(フローズン・ダイキリ!モヒート!ドライマティーニ!!)そしてもしかしたら「戦争」も・・・

と枚挙にいとまが無く、これだけ見ても、まさにマッチョバリバリです。ここでそれについて詳しく書く余裕はありませんが
敬愛をもって「パパ」と呼ばれた、そんないかにもアメリカンマッチョな彼の死に様というのがなあ・・・

重度の鬱だったとか、彼の死に関しては、さまざまな憶測がなされましたが、それにしても、自死の家系ってのは

あるんだなあ、としみじみ思います。自身はもちろんのこと、父親、孫、さらに息子に至っては、性転換の末に、

女子刑務所の檻房で自殺、とすさまじいものがあります。遺伝病理学者の食指が動きますね、これは。


で、僕としては、そういうつながりでいくつもりは全然なかったんですが、考えてみれば、趣味人の先達としての
尊敬を込めた、その名も「パパ・ヘミングウェイ」という大傑作アルバムを彼に捧げた、わが国音楽界屈指の
趣味人であったこのひとも、図らずも自死の道を択んだのでした・・・