かくも日本女性の「芯」がひ弱になった【教育問題】キンタロー、娘が預け先で顔にけが「ショック」 | 中谷良子の落書き帳

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核武装・スパイ防止法の実現を

タレントのキンタロー。が13日、ブログを更新し、娘が預け先で転び、顔にけがをしたと投稿した。



キンタロー。ブログで「ショックすぎる。。。預け先で1歳長女が転倒、顔と頭に傷を負い「ショックで立ち直れない」」とし、「今日仕事で一時預かりを頼んでた預け先でお散歩中に転んで怪我しちゃったって。えええー可哀想、お顔。頭に歩いてる時にバランス崩したみたい」と娘の写真も掲載。顔の右上部分が赤くはれている。

キンタロー。は「不甲斐なさすぎる 私がついていれば」と悔やみ、「女の子のお顔が ショックで立ち直れない!大丈夫かな大丈夫かな大丈夫かなー」と心配することしきり。

「泣けてくる、私が付きっきりだったら大丈夫だったかな、キレイに治るといいんだけど。最近歩くの楽しくて、でもまだまだ不安定で」と娘が歩くことを楽しんでいることを投稿。その上で「もっと預ける時に 説明すれば良かったかな。うちの両親もいないし、頼る所が少なくてこんな時本当に不安になってしまいます。すみません。いっきにメンタル下がってしまいました。不甲斐ないです」と頼れるところが少ないと嘆いた。
https://ameblo.jp/kintalotanaka/imagelist-202103.html

【神戸】彫刻刀で10人負傷、小学校の図工の授業。保護者「安全意識が足りないのでは」
https://www.kobe-np.co.jp/news/sougou/202103/sp/0014147137.shtml




もう開いた口が塞がりません。

日本人女性しっかりしてください!ちょっとしたことで動じすぎです。

今現代を生きる女性は甘ったれた教育しか受けていないので、とっさのハプニングでさえ、回避できる術を知らず、ちょっとしたことで慌てふためき、怖気づいたり、怯み、泣いたり、喚いたり悲劇のヒロインぶる傾向にあるが、(このような女性ばかりですと、有事が起きた時、どうなるかわかりますね?)昔の『大和撫子』は性根が据わっている方々ばかりで感嘆とする。

1946年に起きた中国共産党軍(八路軍)および朝鮮人民義勇軍南満支隊による日本人らに対する虐殺事件(通化事件)に登場するかつての大和撫子達の陰の活躍は本当に素晴らしい!

ここに登場するのは、涙なしでは語れない自らの命と引き換えに、そして日本を守るために敵国からもたらされる性病に感染する覚悟で慰安婦宿を立ち上げた一人の女将さん「お町さん」の存在、ソ連兵・中国人匪賊達からの攻撃で足を麻酔なしで切断されたにもかかわらず、涙ひとつ見せなかった大和撫子が出てきます。

他にもこのようなエピソードがあります。

『手記を書いた母親は当時22歳で、新婚7ヵ月で難に遭うが、常に気丈に、冷静にふるまおうとしていた様子が読み取れる。保安隊の銃弾が次々に打ち込まれ、同胞たちが倒れていくのを目のあたりにしながらも「怖い、恐ろしいを通り越して、せめても一矢むくいたく、歯ぎしりする思いがしました」という。

その後、倒れていた部屋に中国兵らが踏み込み、腹を蹴ったり、青竜刀を肩のあたりに突き付け、死んでいるかどうかを確かめるという切羽つまった場面でも、「うす目をあけて」青竜刀の形や厚さをしっかり確認したという。

夫の死を知らされたときも「取り乱して物笑いになるようなことは致しませんでした」と書く。皿木氏は、「そこにあったのは、かつての『サムライ』の妻たちと同様、『大和撫子』としての自覚だったのかもしれない」と述べている。


以下は、私が心から尊敬し、このような女性になりたいと思う唯一無二の存在であり、憧れる曽野綾子氏のお話です。子を持つ女性は長文ですが、しっかりお読みいただきたいと思います。

★大切なことをしつけるのは、すべて親の務めだ★

日本人が幼児化した最大の原因は、戦後教育の失敗にあるだろう。それは、親と教師と社会のすべての立場の失敗で、学校だけのせいではない。

総じて、大人たちが適切な愛情と厳しさで子供達に接することなく、ただ自由がいいということで、甘やかして子供が嫌がることは一切させなかった結果だと思う。

学齢期までの子供のしつけは、親の責任である。挨拶ができること、単純な善意をわきまえること、我慢することなど、生活の基礎的訓練を終えて社会に出すのが、親の務めなのだ。

でも今の親は、それをまったくしない。

最近でも、ひどい日本語を使ったり、「ありがとう」も言えない若者を見ると、こういう人の親というのは何をしていたのだろう、と思う瞬間がある。学校で敬語を教えてください、家事を手伝うように言ってください、などという親がいるが、とんでもない。

私は、親から全部学んだ。

小さい時から家事ができるようにしつけられた。小学4年生くらいにはガスでも薪でも御飯が炊けたし、下着も自分で洗っていた。とりわけ母がいちばん熱心に教えたのは、お手洗いとゴミ箱の掃除だった。

「人間、いちばん汚いものの始末ができるようになると、恐ろしいものがなくなるのよ」と言われたが、当時の私はそれがどういう意味なのか、はっきりとわからないままただ言われるままにやっていた。

★今の日本人は「生きるか死ぬか」の免疫がない★

今の日本人は鍛えられていない。

戦争もない、貧困もない、生きるか死ぬかというギリギリの社会的な状況もない。修羅場というものを越えていないから、ひ弱になっている。

でも修羅場を作為的に作るわけにはいかない。だから不便や不遇が自然に発生した時に、私達はそれを好機だと思い、むしろ最大限に利用することを考えるべきなのである。

つまり、幼い時から苦労に慣れさせる訓練をする。

子供に生活の厳しさも見せず、人間関係の葛藤も見せないで、ただ、いたわって大きくすると、子供は小さな苦しみに耐えられなくなる。

ごくささいな人並みの苦悩が引き金になって、自殺しかねない。

むしろ小さい時から苦労している子供は、大きな困難にぶつかっても、どうにか生き延びようとするものだ。

ひどい環境だったからこそ、その中から学んで強くなったという人間は、世間にいくらでもいる。プールがない学校はみじめだとか、駅から1キロ歩かなくてはいけない学校はスクールバスを運行すべきだとか言うのは、とんでもない。

プールがなくても泳ぎを覚えたい生徒はどこかで覚えてくるし、毎日片道1キロくらいの通学は体の鍛錬になる。たいていの逆境は、子供を鍛えてくれる素晴らしい教師だと思えるのだ。

★戦後教育の失敗は「徳」を教えなかったこと★

私は、日本の戦後教育の中で、最大の失敗は、学校も家庭も社会も「徳」というものを教えなかったことだと思う。

体力と知能は、二輪車の2つの車輪のように、どちらの力も同じように伸ばすのが教育だと思うが、それに第3のものが加わらなければ、教育は完成しないし、人間らしい人間もできない。

それが、徳の力とでもいうべきものである。

一般的には「知・徳・体」といわれる3つの中で、あえて必要な順を挙げれば、私は、「徳・体・知」の順序になると思っている。しかし世間は、まず「知」、それからずっと軽い意味で「体」、と思ってきたように見える。「徳」というものに至っては、その存在さえ、たまにしか耳にしない。

徳育、つまり道徳を教えるのは難しいという話を何度か聞いたが、私には理解できなかった。

算数や国語を教えるには技術がいる。しかし、人を殺してはいけない、人の物を盗んではいけない、人に迷惑をかけてはいけない、人には挨拶し、何かしていただいたらありがとうと感謝し、困った人がいたら手を差し伸べ、人の幸福を喜び、それを態度で見せる。

こんなことは誰でも語れることである。そういうことすら、子供達は少しも確実に教えられていない。

道徳の基本は、他人を思いやるということである。それができていない人が、世間に驚くほどいる。電車に乗れば、席を詰めもしないで、なんとなく2人分の座席を占領し、平気な顔をしている男女を見ない日はないだろう。義務教育を終えても、まともに電車の座席に座ることもできない人間を、親や教師はつくってしまった。

友達をいじめで殺したり、浮浪者をなぶり殺しにしたりする青少年は後を絶たないし、万引きに至っては、どこにでも転がっている。「子供の万引きくらいたいしたことない」と言う大人がいるが、万引きは、店の持ち主の迷惑を全く考えず、人の目をかすめて、自分の欲しい品物を手に入れようとする。それはお金の貧困ではなく、人間の心根の極度の貧しさを示すものである。

だから、大人たちは、子供の時から何遍も繰り返し、万引きをする精神の恥ずかしさを教え続けなくてはならない。複雑なことは、誰にも教えられない。

1人しか生き残れない場合、生きるチャンスを人に譲るかどうか、などということは、本人が生涯をかけて考えるほかない。ただ教育は、こういう美徳もあるのだという例を見せ、他人の為に死んだ人は普通の人にはできない勇気ある選択をした、と教えられるだけである。