【吉田松陰】短い指導期間と不朽の成果③ | 中谷良子の落書き帳

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こちらのつづき

松陰先生のこの名言は大好きですね。
私のMottoです。
「体は私なり、心は公なり公を役にして私に殉(したが)う者を小人と為す」

私を使役して、道を行なうことを心がける者が大人であり、私の欲望を満足させる事を目的とするものは小人である。


今の政治家に言って聞かせたいほどの名言です。



野山獄に投獄されてから1年2カ月、松陰は恩赦によって出獄すると、実家の杉家で謹慎の身となりました。

温かく迎えてくれた家族や近親者を前にして、松陰は獄中で未完に終わっていた『孟子』の講義を続けました。

すると、その評判を聞きつけて1人、また1人と近所の青少年たちが集まってきました。
このことがきっかけで、松陰は松下村塾を主宰することとなるのです。

松陰は彼らに対して

「人としていかに生きるべきか」ということ、すなわち人の道を、くる日もくる日も説いていきました。

そして、その上で1人1人の個性を尊重し、それを磨きあげながら、その者の能力や境遇に応じて働くべき分野を見出し、そこに使命を発見するよう指導していったのです。

松下村塾は、入塾試験もなく、授業料もとらない、雑草集団でありながら、その中から、のちの内閣総理大臣2名、国務大臣7名、大学の創立者2名など、明治の屋台骨を背負って立つ人材が数多く巣立っていきました。


しかも松陰は安政の大獄で刑死しますから、松陰が松下村塾で子弟の教育にあたった期間は長く見積もっても2年10カ月。

それはまさに教育の奇跡といえるでしょう。
松陰の短い人生を振り返ると、本当に不思議な気がします。

もし松下村塾を主宰していなければ、吉田松陰という名前が歴史に刻まれることもなかったでしょうし、日本史はまったく違ったものになっていたかもしれません。

そして、もし松陰が野山獄に投獄されることがなければ、松陰は松下村塾を主宰していなかったでしょう。

これだけの輝かしい実績を残した松陰ですが、教育者としての松陰の原点は、獄中にあったのですから・・・

一般的に考えれば、野山獄に投獄された時、松陰はもう一生ここから出られないかもしれないという、絶対絶命のピンチを迎えていました。

松陰のように志ある若者にとっては、それは人生最大のピンチのはずです。
でも実際は、そこから松陰の人生が一気に開け、志を果たしていくのです。

松陰の人生を振り返って思うこと。

それは「もう越えられない」と思うような大きな壁こそ、天の用意してくれた人生の扉なのだということ。

あきらめず、執着もせず、与えられた環境を受け入れ、ご縁をいただいた人たちのために出来る精一杯のことを行う。

そうすれば、人生の扉が大きく開いて次のステージに進めることを松陰の人生は物語ってくれています。


$Jellyの~日本のタブー~




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