日々いろいろな国や地域で悲惨な出来事(ネガティブ)な事象が多く報道されています。
悲しい出来事には、当然悲哀の思いがあふれます。
これは、人間である以上は当然だと思っております。
ですが、必要以上にネガティブになることは如何でしょう?
これからは、もっともっと異常な事象が顕現してくるでしょう!?
持論ではありますが、ネガティブ=攻撃になり易いと考えております。
人間は弱い動物です。
「窮鼠猫を噛む」ということわざがありますが、必要以上に追い詰められ恐怖心を抱くと、思いもよらぬ反撃に合う。もしくは反撃に転ずる。
そんな戒めだと考えております。
また、最近の国政に関しても報道番組の中で時折出てくる「ワード」に
自らの立場を堅持する為に「敵を作る」という言葉が耳に残ります。
なぜ???
敵を作る必要があるのか?なぜ自分の意に沿わないからと中傷誹謗し、攻撃する必要があるのか?
現政権にしても、富田議員の件にしてもしかり、
また、youtubeをにぎわした芸能人の映像にしかり、
とてもさみしく思います。
この世(現世)は自分探しの旅!!
確かに、恐怖という感情は身も心も委縮させてしまいますが、
人間の抱く恐怖とは・・・・
一番の恐怖は「死との直面」
しかし、人間も動物も植物さえも、産まれた時からすでに「死に向かっている」のです。
自分史の物語の締結は死なのです。
そんなこの世の中で、自分がいったい何ができるか?何をするべきか?
身近なことからできることは!?
人を批判しない、自分以外の人間を認める!
それが、まずは必要な事ではないでしょうか?
しかし、害になる人間関係もあるのも事実です。
集団の中の一個人が他の人との共生の中で、その個が集団に埋没してしまうような関係です。
家族やパートナーや友人との関係や、最近のマスコミ報道などの有名人にもそのような人がいます。
そのような人は、
自分の人生の価値が、ある場面で、または多くの場面で、下がってしまっていることに気がつくまで、その人間関係の本当の影響に気がつくのが難しいことが多いと思います。
他の人に起きていることに干渉し過ぎて、息をするのも食べるのも、自分のやり方で世を渡るのも忘れます。
おそらく絶え間なくその人のことを考えているのでしょう。
その人と同じように感じるので、その人の問題を自分のことのように心配していると思います。
場合によっては、自分のいるべき場所でなく、その人の場所を占めようとしているとも言えるかもしれません。勝ち負けにおいて、さらには、負けしかなくても、共生関係を確立してしまいます。
その人に干渉する必要はありません。
自分の真の必要性に注意を払わず、有名人を、その人の生活や習慣を真似するほどまでに、賞賛するような一方的なつながりになっているのかもしれません。
それは、自分自身の真の姿でしょうか?
そのような人生には空虚しかないのでは?
その空虚は、実存であれ想像であれ、別の人の存在でいっぱいになります。
その人に起きることを心配し、その人のことを判定し、その人の問題を解決し、自分のことよりその人のことについて話をします。
その人に起きる悪いことは、自分自身もに強いインパクトを与え、判断を曇らせます。
自分の居場所にも自分自身のことも手につかなくなります。その人の件で意見を言ったり決定を下します。
これらのことは、人生の中心から自分自身を引き離し、限られたエネルギーと時間を浪費させるだけで、自分自身の件は二の次のままになります。
しかし、その場の自分にとっては心地良い状況なのでしょう。
なぜなら、自分の行動に責任を取らなくてもいいように思えるからです。自分自身の人生をコントロールして、自分自身の豊かさを発展させることへの恐れで麻痺し、他の人の必要性や希望であるように感じられることをするほうを好のんでしまうのだと思います。
その人の良し悪しを判断しないこと。
また、その人の考え方を操ってその人の人生に押し入らないこと。
また、その人にもそうさせないこと。
その人が誤った判断をしても、その人を尊重する。
人は自分で誤るのは問題ありません。しかし頼まれていないことはしない。
その人に関連することはしない。
人は人と区別することは、自分を尊重することであり、その人を尊重することでもあると思います。
まずは、自らのネガティブな要因を排除していくことが必要です。