【広島市への原子爆弾投下 】ウィキペディア
1945年(昭和20年)8月6日午前8時15分に、
アメリカ軍が日本の広島市に対して投下した原子爆弾。
世界最初の核兵器である。
この一発の兵器により当時の
広島市の人口35万人(推定)のうち
約14万人が死亡したとされる。
爆心地500m圏内では
強力な熱線により屋外にいた人は、
内臓組織に至るまで全身の
水分が蒸発・炭化した遺体が道路などに大量に残された。
原爆が投下された際に広島市内には
米軍捕虜十数名が収容されていたが
全員が被爆死している。
広島原爆には約50キログラムのウラン235が使用されており、
このうち核分裂を起こしたのは1キログラム程度と推定されている。
爆発で放出されたエネルギーは約63兆ジュール、
TNT火薬換算で1万5千トン(15キロトン)相当に及んだ。
爆発の瞬間の爆発点の気圧は数十万気圧に達し
爆心地における爆風速は440m/s以上と推定されている。
原爆の爆風は、エネルギー比では
台風の暴風エネルギーの1,000倍の爆風であった。
爆心地の地表が受けた熱線は
通常の太陽の照射エネルギーの数千倍に相当する。
爆心地の地表に到達した放射線は、
1平方センチあたり高速中性子が1兆2千億個、
熱中性子が9兆個と推定されている。
爆心地における放射線量は、
103シーベルト(ガンマ線)、141シーベルト(中性子線)、
また爆心地500メートル地点では、
28シーベルト(ガンマ線)、31.5シーベルト(中性子線)
と推定されている。
GHQによる原爆報道統制が日本国民の間に
「被爆者差別」を生み、被爆者はこれにも
長く苦しむことになった。
すなわち原爆、放射能、放射線に関する情報不足より、
日本国民の間に「被爆者差別」が生まれた。
戦後しばらくの間、新聞・雑誌などにおいても被爆者は
「放射能をうつす存在」あるいは重い火傷の跡から
「奇異の対象」などとして扱われることがあり、
被爆者に対する偏見・差別は多くあった。
これらは被爆者の生活に深刻な影響を与えた。
。。。(記事抜粋)。。。
【復興 】
台風が過ぎてしまうと急に秋らしくなり
晴れの日が続くようになりました。
焼け跡のあちこちに草の芽が吹き出しはじまたのです。
それは鉄道草(ヒメムカシヨモギ)と呼ばれている草で、
人の背くらいにまで伸びたのです。
これを使ってだんごを作り、焼け残った江波などで
開かれておいた闇市で売られました。
しかし、このだんごはあまりおいしくありませんでしたが、
空腹には勝てず食べて日々をしのぎました。
原子爆弾爆発とともに放射能がまかれ、
さらに黒い雨が降った広島には
70年間動物・植物は育たないという
外国からの通信が伝えられていました。
しかし焼け跡一面に草がつぎつぎと生えはじめたのを見て
「生きることができる」という喜びを人々は感じました。
。。。(記事抜粋)。。。
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