既存の階段室を使うということに焦点を向けることで地上から屋上に繋がる糸や複数から個人、そしてそれがまた街に繋がる。という理解が出来てきた気がする。
階段室はまだやっぱりちょっとダンジョン的なスケッチーな一面がある。これにじゃあどうやって光を注ぎ込むか、それが問題になってきた。既存の階段室を完全に取り除いて、新しい階段を挿入しようか?現代の刀にあたる存在は?何か茶家の表に残してくるのか?
手を洗う。靴を脱ぐ。こういったものも大事にしたい。玄関の段差という空間の分離。
ハシゴを上るという意味で、持って行けるモノのリミットはある意味かかっている。荷物や靴を置いて上る。手を洗ってから上る。水は何処の時点から持ってくる?炉は?靴が地上の入り口にあれば人がいるか居ないか分かる。沸いてくる水を少しずつ溜まるのが待つ。一杯のお茶になるまで待つ。そんな感覚。。。。ジャーーーーーーっていう蛇口じゃない気がする。酌む(くむ)に近い。
自分のお茶を持ってくるというのがカフェとの違い。
個人的な一部。個人的なお茶。個人的な時間。
雨宿りする場所。
この先は屋上まで繋がった線を次はどうやって向かいの茶室に繋ぐかという問題。リリーの言うAccumulationとDissolvingという時間軸を取り入れた線をどうやって繋ぐか。繰り返し行われるRitualの一部にどうやって人々は参加するのか?
「参加した」という実感を得られるのか?
すべてのお茶室がすべてを支えあう。
何か足りないコンポーネントを他の目の前にある茶室が補う。
茶家に人がいる時と、居ない時。雨戸とか明かりとか。
実感が無い建築はつまらない。
PassiveなネットワークよりはActiveに。
身体感覚を大事にするプロジェクトの中でやはり携帯電話などテクノロジーを取り入れるというのは抵抗がある。身体感覚を通してのネットワークとは一体?