岡山城は2022年11月にリニューアルオープンし、訪れた日はライトアップ「烏城灯源郷」のテストをしていました。
夕方だったので、偶然ライトアップを見ることができたのです。
岡山城は豊臣五大老の一人、宇喜多秀家が築城したお城です。
1600年の関ヶ原の戦い後、宇喜多家は改易となり、小早川秀秋が城主となります。
そのわずか2年足らずの後の1602年、小早川秀秋は21歳で急死、跡継がなく小早川家は断絶。
(この辺りの事情には様々な憶測があるようで、ちょっと複雑な心境で今これを書いています)
1603年池田輝政の次男・忠継が城主となります。
天守台は、不等辺五角形の形をしているのが特徴的です。
なので天守台の石垣下から天守を眺めると、上の階と下の階の屋根の並びが平行ではなく、歪んでいるように見えるそうです。
四角形ではない天守台に築かれた天守の構造には、その歪みを修正する工夫が施されていて、上の階の建て増ししたような部分で歪みの修正をしています。
外観は黒漆塗の下見板張りが特徴的で、別名「烏城(うじょう)」とも呼ばれています。
鏡石
本丸入口の石垣です。
池田家が城主になった頃に築かれたと考えられています。
大納戸櫓
本丸の大手を守る要となる三重四階建ての城内最大の櫓がこの石垣の上にありました。
今はありません。
石垣
石垣の積み方にもそれぞれの特徴があるのだそうです。
宇喜多秀家時代の野面積み
小早川秀秋時代の切込接
池田時代の打込接
月見櫓
本丸の裏・北西方向を守る櫓。
1620年代に池田忠雄が築いたもので、岡山城本丸跡に現存する唯一の櫓です。
城外側には、鉄板で覆われ下部に石落のある出窓が付いています。
打込接の石垣も見事です。
廊下門と渡り廊下
本丸中段へ入るための門で、搦手門にあたります。
上の廊下は、御殿に住む藩主が中の段にある表書院に降りる通路として利用されたため「廊下門」と呼ばれました。
鉄筋コンクリート製で再建されています。
内側から
築城当時の石垣
発掘調査で見つかった、宇喜多秀家が岡山城を築城した当時の石垣です。
江戸時代の初めに城を改造する時に、この石垣を埋め込んで中の段を広げたため、地中に埋もれていたものです。
六十一雁木門(ろくじゅういちがんぎもん)
城の裏手の旭川に通じる門です。
雁木とは階段のことで、元は61段あったことに由来する名といわれます。
石段の下にはさらに櫓門がありました。
不明門(あかずのもん)
本段に上がる入口の城門です。
本段には藩主が暮らす御殿があり、限られた人しか入れず、門は普段閉ざされていました。
それで不明門と呼ばれるようになったのだそうです。
1966年に外観が再現されました。
外から
城内では、岡山の歴史を展示で見ることができます。
岡山出身の磯田先生が岡山城を案内する映像が流れていました。
華頭窓が再現されてます。
金色のシャチホコ
関ケ原の戦いを中心に、宇喜多秀家、小早川秀秋、池田輝政の3人の生涯が紹介されています。
宇喜多秀家の甲冑
違い鎌の紋の小早川秀秋の陣羽織
ライトアップ