検査中にブログ書いてます❗️❗️ | 俳優・起業家 唐渡亮 オフィシャルブログ RYO心的に生こう

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2001年公開された映画『ホタル』は、映画俳優 高倉健氏が降旗監督に「映画化したい」と自ら持ち込んだ作品ということは有名な話しです。後世に真実の歴史を伝え残す為にも…


私は、先日行ってまいりました。
悠久の煙を噴き上げる桜島の麓、鹿児島市は、南九州最大の都市です。そこから南へ一時間!!曲がりくねった山道を走ると、知覧と言う小さな山間の町があります。今から70年ほど前この小さな町には、陸軍最大の特攻基地がありました。
沖縄に上陸したアメリカ軍に対し爆弾を積みこんだ飛行機にて、戦艦に体当たりをするという、人類史上類のない作戦が、行われたのです。知覧を中心とする陸軍887機、鹿屋を中心とする海軍940機、沖縄戦だけで3千名を超える若者たちが、沖縄へと出撃帰らね人となりました。そんな知覧特攻基地の近くに、特攻隊員から母親のように慕われた女性がいました。軍の指定食堂の女主人『鳥浜 トメ』実はトメ食堂は、昭和17年知覧に出来た、飛行学校の指定食堂になり、空に憧れた少年達のお世話をしたのがきっかけでした。故郷を遠く離れた少年達にとって、当時40歳のトメが母親のように思えたのです。少年達はトメを「お母さん」と呼び慕ってました。そして、立派に成長飛行兵となり、戦地へと、旅立ったのです。
ところが、昭和20年3月立派に成長した、かつての少年兵達が知覧に帰って来たのです。顔つきは変わり、二十歳前後になっていました。みんながトメ食堂に、会いに行きました。しかし、厳しい戦いを経験し生き残った若者達の任務こそが、特攻攻撃隊だったのです。特攻隊員の出撃は軍の機密、両親にさえも居場所を伝える事はできなかった。しかし当時、大本営陸海軍部は特攻隊員を『軍神』としました。いずれ本土上陸を、目指すアメリカ軍に対し「本土上陸を許してはならない。特別攻撃隊は、軍神としてにっこり笑って機上の人となった。我々国民も一億総特攻軍神に続け。」と。国民を戦意高揚させたのでした。

トメ屋食堂を訪れた勝又 勝男(21歳)は、最後にトメにこう残しています。「おばちゃん、俺は沖縄に行く。そんなに泣かないで喜んで見送ってくれよ。日本は勝つ!!だって俺の名は、勝又 勝男だよ。俺が行くんだから必ず勝つから。心配しないでくれよ。人生50年と言うから残りの30年、おばちゃんにあげるよ。だから長生きして、将来の日本に俺達の姿を伝えていってくれよな」と、トメの涙は止まることはなかったのです。勝又少尉は、翌日沖縄の海へと散って来ました。

特攻隊員はトメにだけは、真実を語りました。アメリカ軍の攻撃は激しく何度も帰ってくる、特攻機も続出しました。穴沢利男少尉も、その一人でした。そんなある日、知覧高等女学校の生徒(なでしこ隊と呼ばれ特攻隊の兵舎片付け洗濯等をしていた。)に、ひそかに手紙を渡しました。「これを郵便で出してくれ」と、なでしこ隊の中にはトメの次女「礼子」もいました。基地内から一切書類も、持ち出してはならぬとの命令を、少女達はやぶったのです。その手紙は、婚約者 智恵子さんへの手紙でした。特攻隊員は軍神です。女性への未練も、生きることへの未練も、捨てなければならないのです。その頃 智恵子さんさんは、東京から穴沢少尉を追いかけ、東京から都城・都城基地まで、追いかけて来ていました。都城基地の門兵に聞くと、その部隊は出撃したと言われ、泣きながら南の海へ手を合わせ、東京へと帰って行ったのです。しかしその時、穴沢少尉は知覧にいたのです。5 度目の出撃でした。なでしこ隊の女性達桜の小枝を振る中、穴沢少尉は出撃、帰らね人となりました。
東京へ帰った智恵子さんに手紙が届いていました。「智恵子 穴沢はもはや、この世には存在しない。俺のことは忘れて新活面を見出し、明るく郎らかに暮らしていって欲しい。俺はそのために行く。一つだけ、わがままを言いたい。会いたい、話したい、智恵子  俺は、笑って行く。お前の笑顔を願いながら。さらば、智恵子よ」トメは、語りました。「笑って行った人など1人もいない。愛する人と暮らしていたかった。でも、もはや本土上陸目前だったから、愛する人を守るんだと、私にはっきり言ったよ」と…
6月になるとアメリカ軍は、ほぼ沖縄を攻略。6月5日新潟県出身の宮川軍曹は、トメに言いました。「おばちゃん短かったけど本当にありがとう。明日、出撃します。でも又、おばちゃんの所へ帰って来ます。ホタルになって帰ってくるから、その時は『宮川、来たか』と、追わないでくれよ」
と。目に涙を浮かべ、トメに遺品を渡すと灯火管制の、暗闇へと消えて行きました。そして6月6日の夜、富屋食堂に一匹のホタルが飛び込んできました。トメは、叫びました。「このホタルは、宮川さんですよ。同期の桜を歌って下さい。」と。出撃を待つ特攻隊員、トメと娘達と、みんなで泣きながら同期の桜を歌ったのです。

そして、6月11日を最後に、特攻作戦は、中止されました。南九州の特攻基地もアメリカ軍の空爆により、多くの被害を出し、アメリカ軍が上陸してくるといううわさが広がり、トメも覚悟しました。
それからわずか2カ月後、日本は敗戦国となりました。『愛する人を守るんだ』と、若者達は私にはっきりと言いました。彼らが最後この国を守ったのです。』トメは、1人飛行場跡に、木の墓標を立て祈り続けました。そして10年が過ぎ、昭和30年知覧特攻平和観音堂が建設されましたが訪れる人は少なく、私達 孫に伝えると、平成4月22日 89 歳でこの世を去って行きました。とあります。

今、現在日本は、表明上自衛隊の守る平和な国となっております。しかし領土問題は、一発触発の可能性もあり、海外での邦人へのテロ、北朝鮮のミサイル問題、中国の領域問題等、我が国を守るという、自衛隊の真の活動が規制されております。戦争は二度と繰り返してはなりません。自衛隊の一つの命も失ってはなりません。若くして命を散らした特攻隊隊員、そして300万人を超える戦没者のためにも。我が国の自衛隊という組織がより以上安全に俊足に行動出来るよう法律や憲法の改正が必要な時が来ているのかもしれません。過去の悲劇を繰り返さぬ為にも…

現在「富屋食堂」は資料館として、生まれ変わりトメの残した、検闘を逃れた写真・手紙が展示されています。
我々は、真実を知らなければならないのです。
命の尊さ・戦争の愚かさを教えてくれた、過酷な時代に生き死んで逝った若者達にも…



映画『ホタル』の伝えたいことは、この真実を知ってもらい後世に伝えることが根源にあるのだと思います。


私はこの知覧の地を久しぶりに足を運ぶ機会がありました。

三角兵舎です。

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特攻隊員たちが出撃前夜を過ごした三角兵舎は、知覧特攻平和会館から車で5分ほど走ったところにあります。


会館横にある復元された三角兵舎を撮影させていただきました。


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様々な本に掲載されているこの写真の通り、ここで過ごす特攻隊員には、笑顔があふれている。

明日死ぬと分かっている彼らは何を考えたか…
わが身に置き換えた時、胸が締め付けられます。
この場所で、私はただただ手を合わせ、冥福を祈りました。