再読に値する書物があるように、再観に値する映画もあるのだろう。それを定義したり、選別することは不可能なことなのだろう。
ただ驚きが尽きずにあることがその条件であることは言えるのかもしれない。
『パターソン』には2つのカップルが描かれていることに注目する。1つは当然パターソンとローラ。もう1つがエヴェレットとマリー。パターソン・ローラのカップルは映画全体を覆う愛の絨毯として、ほつれもなく伸縮している。それに対して、 エヴェレット・マリーのそれはすでに破綻した状態から登場し、単調なのに詩と愛に彩られた世界に浮き出た染みのように事件的場面を演出している。
この事件はほとんど戯れの域を出ない。パターソン・ローラがつむぐ基調を乱すわけでもなく、むしろその色彩を際立たせることに一役買っているともいえる。
パターソン・ローラのペアはすでに同棲し、互いの好みや生活のリズムまで熟知している。だからこそ、この2人はある一定の距離を保ちつつ、平穏を維持している。そこには一見すると、相手に対する情熱や愛着が希薄なようにも思える。しかし、よく注意してみてほしいのだが、彼らの生活においては各自の「内なる」情熱が換喩的に表現されている。パターソンはあの失われる運命にある詩によって。ローラは生活そのものを彫琢する多様な趣味によって。興味深いのは、我々には、パターソンの詩は朗読されているのに、その名宛人へは届けられることがないということだ。彼は詩を書くことはあっても、それを他人に見せたり、読んだりすることhに否定的態度をとる。ローラへ捧げられるのは(我々の前では)あの少女から聞かされた詩の断片(「水が落ちる」Water Fallsと題されている)のみなのだ。
Water falls from the bright air
It falls like hair
Falling across a young girl's shoulders
(...)
彼女はある種の代弁者として顔をのぞかせる。彼女は軽やかにパターソンの前に登場し、詩を読み上げてみせる。彼は彼女の態度に励まされるような表情を顔に浮かべて、この幼い詩人を見送る。それにしても、このパターソンという詩人は無口であることに誇りを持っているようだ。彼の詩は彼女との出会い、爾来ある変化をする。冒頭で書き連ねていく詩行は一種の換喩であり、彼と日常との連絡路のようにその源泉を遡及することも容易だった。ほとんど無題に近い詩なのだが、詩のなかにその題が埋め込まれているような作品といえる。一方、最後に読み上げられる2つの詩――Ther RunとThe Line――はより抽象的で、想像的だと言える。彼の詩の特徴はW. C. ウィリアムズにならって身の周りに広がる日常から掬いとられたイメージや事物、什器で構成されている。つまりは、彼の生活と詩は相似的関係にあるのだ。一方で、先の2篇になると、彼の筆は今までの彼の詩作から逸脱していくような印象を受ける。こまかな分析は割愛するとして、彼が日常との関係性を変え、日常を詩に埋め込んでいたところから、日常から詩を抽出するようになったとだけ述べておこう。
I go through
trillions og molecules
that move aside
to make way for me
while on both sides
trillions more
stay where they are.
(...)
詩が詩であるための要素はそう多いものではない。多くなると、それはむしろ不純物のように質量ばかり増えた合金の王冠のように人を欺き、疑心暗鬼に陥れることになるのだろう。
さて、ここまでパターソンの詩に沿ってある主題を観察してきた。そろそろもう一方の主題に戻ることにしよう。
つまり、パターソン・ローラのペアが愛の主題であったとすれば、エヴェレット・マリーのペアはその激情や反発ゆえに考察される恋の主題と呼ぶことができるだろう。後者は破綻後に絶えないエヴェレットの片想いを軸にして進行していく主題であり、あの自殺騒動をもって終結するこの痛ましく無益な関係性は愛の主題をもってして対比されるものである。
批判を恐れずに言えば、恋は燃焼する小さなエンジンのように物語を突き進む。この物語の連環から逸れていく主題はそれ独自で進展し、ついにはひとりでに破裂し、残骸が何事かを物語るようになるのだろう。