私が普通に教室に通っていたころ、
相談室というものに対して、あまりいいイメージがありませんでした。
なんとなく暗くて、『普通じゃない』人が行く、私には縁のない場所。
だから不登校になってからも、相談室に通うという選択は、私のなかにありませんでした。
でも、私より先に起立性になった友達が、一緒に行かない?とさそってくれたので、一度行ってみることにしました。
実際に行ってみると。
そこはイメージと違う、いいところでした。
そうして、私はしばらく相談室に通うことになりました。
最初は、できるだけ誰ともかかわらず、たまに友達と話しながら自習をしていました。
なんせ中3の7月。
受験生まっただなかでしたので(笑
相談員さんは、男の先生と女の先生の2人いて、日替りで来ていたのですが、
2人ともいい先生で、
特に女の先生はおもしろい先生でした。
すっごく自由で、次々とゲームを考え出しては、みんなで遊んでしまうような先生。
私は少しずつ先生と話すのが楽しくなり、
相談室に来ている他の子とも話すようになりました。
そして気づけば、それぞれバラバラだった相談室のメンバーが、ひとつにあつまって笑いあっていました。
本当に楽しい日々でした。
話してて面白いし、相談もしやすい。
そして何よりその自由さが、
私の心をほんとに軽くしてくれたのです。
私は学校生活で言う、
『普通』の人も『普通じゃない』人も、
どちらも経験しました。
そしてどちらも経験した私は、
どちらも変わらないと思ったのです。
『普通』の人は、自分とちがう人を『普通じゃない』と見て除外しがちです。
私もそうでした。
学校やクラスに普通に行けてる時は、
学校に来れない人、
相談室に通っている人を、
どこかで自分とはまったく別だ、と思っていました。
なんで学校に来れないのか、
クラスに来れないのか、分からない。
ただ単に、来ればいいのにと思ってました。
相談室もそう。
「あそこは普通じゃない人が来る場所」
そう思っていました。
そこにいる人のことなんて、考えもしなかった。
でも実際、相談室に通うようになって、
そこで私と同じようにクラスに行けない人達とすごして、
そんな私達のありのままを認めてくれる、相談室の先生とすごして。
それを今振り返ると、
決して『普通じゃない』人なんかではなかったと思うのです。
常識では、学校やクラスに行けるのは当たり前で、誰もがそれが「正しい」と思ってる。
そしてその反対を「正しくない」と否定しているから、学校やクラスに行けない人を『普通じゃない』人として除外してしまう。
でも行けることだけが正しいなんて、誰が決めたのでしょうか?
私は結局、卒業までクラスには行けなかったけど、
今思えばただ「クラスに行けなかった」だけで、その他は何も違わなかったように思うのです。
むしろクラスに行けなかったことで、貴重な経験や学びをたくさん得られたと思ってるし、
そうでなかったら、確実に今の自分はいなかった。
そう思うと、はたして学校やクラスに行けないことは間違いなの?と思えてくるのです。
「学校やクラスに行けることが正しいに決まってんじゃん」
もちろんです。
でも、
「学校やクラスに行けることが正しい。でも行けないこともまた、正しい。」
それではダメなの?
そう思うのです。
自分が信じていることの反対側を否定するから、除外する者とされる者が生まれる。
争いがおきてしまう。
そして他でもない、学校やクラスに行けない自分自身が、頭の常識の反対側にいる今の自分を否定するから、
自分を責めて、苦しんでしまう。
勇気をもって一歩ふみ出して、
信じるものの反対側に歩み寄ってほしい。
そしてそこにある、否定しつづけたものを信じてみてほしい。
すぐには信じることができなくても、
せめて認めてあげてほしい。
学校やクラスに「行ける」ことも「行けない」ことも、どちらも正しいと思うことができれば、除外することもなくなる。
もう自分を責めて苦しむこともなくなる。
+1に-1を足したら、答えは0。
信じることの反対側に歩み寄り、
否定し続けたものを信じる。
それができれば、問題は0になり、
あなたの中からパッと消えてなくなります。
クラスに行けず、相談室通いをすることになった私ですが、所属していた吹奏楽部だけは行っていました。
1ヶ月後に最後の大会、吹奏楽コンクールが控えていたからです。
次回、わたしを支えてくれた吹奏楽部と最後の大会について書きたいと思います。
どうぞ、お楽しみに(^-^)ノ~~
