鎌倉の北、山に抱かれるようにして佇む円覚寺は、新緑の季節にこそ、その本来の気配をあらわにする。

 

 山門へと続く石段に足をかけると、町のざわめきはふっと遠のき、かわって耳に満ちてくるのは、若葉を渡る風の音と、名も知らぬ鳥の細い声である。

 この寺は、執権北条時宗によって開かれた禅の道場であるが、その静けさは歴史の重みを超えて、訪れる者の内面へと深く入り込んでくる。

 

谷戸に沿って伸びる参道は、まるで緑の回廊のように、外界から心を切り離してゆく装置のようでもある。光は葉に砕かれ、細やかな影となって足もとに揺れ、歩むごとに思考の輪郭がやわらいでゆく。

 

 この地を、かつて夏目漱石が参禅した。明治の知性は、ここで禅に触れ、自己という難問に向き合おうとした。だが彼は、ついに「悟り」と呼ばれる地点へは到達しなかったといわれる。

 その不首尾は、むしろ彼の誠実さを示すものでもあったのではないか。安易な解答に身を預けることなく、問いを問いのまま抱え続ける――その姿勢こそが、後年の文学を深く支えることになる。

(円覚寺参禅の体験を小説『門』にした)

 新緑の中に立つと、その「悟れなかった」という事実が、否定的な響きを失いはじめる。青葉はただ光を受け、風に揺れ、そこに意味を与えようとする人の思いを静かに受け流している。

 

 禅が沈黙のうちに示すものは、答えではなく、答えを求める心のあり方そのものなのかもしれない。

 

 漱石が掴めなかったもの、あるいは掴まなかったものは、この揺れる青葉の中に、いまも形を変えて息づいているように思われる。

 仏殿の前に立つと、時間はさらにゆるやかになる。人の声は葉擦れに吸い込まれ、香のかおりがほのかにただよう。風がひとすじ通るたび、青葉はさざ波のように揺れ、言葉にならぬ問いをそっと差し出してくる。

 

 その問いに、明確な答えはない。いや、答えを求めること自体が、ここではすでに遠のいてゆく。ただ、問いを抱えたまま立ち尽くすこと、それ自体が一つの「参禅」であるかのようだ。

 

 奥へ進めば、緑は幾重にも重なり、水墨の濃淡のように山肌を染めている。視線をさまよわせるうちに、心もまた定まるところを失い、やがて静かな空白へと落ち着いてゆく。

 悟りに至らぬまま、それでもなお歩み続ける心、そのありようがこの山の緑とどこかで響き合っている。

 

 山を下りるころ、陽はやや傾き、緑はいっそう深みを帯びている。石段を降りきり、ふと振り返ると、山門の向こうにひろがる静寂は、すでに遠い夢のようにも思える。

 

 しかしその余韻は、胸の奥に柔らかく残り続ける。悟れなかったという事実さえも、いまはひとつの静かな肯定として、内面に沈んでいる。

 

 そのまま足をのばし、JR横須賀線を渡って東慶寺の脇にある小さな喫茶店へ入る。喫茶吉野。控えめな佇まいのその店には、寺の静けさを引き継ぐような、落ち着いた時間が流れている。

 窓越しに見える緑は、先ほどまで歩いていた山の色とどこか響き合い、湯気を立てる珈琲の香りが、現実へと戻るための緩やかな橋渡しとなる。コーヒーとパウンドケーキを注文する。

 

 カップを手に取りながら、今日の道のりを静かに振り返ると、漱石が抱え続けたであろう「解けぬ問い」が、どこか身近なものとして胸に残っているのに気づく。

 それは答えを持たぬまま、しかし確かに生きている問いである。円覚寺の新緑は、その問いを否定もせず、解消もせず、ただやわらかく包み込む。

 

 そして人は、その包容の中で、未だ悟らぬままの自分を、ひととき静かに受け入れるのである。(了)