聖書 旧約:イザヤ書 42章5節~9節

    新約:ヨハネによる福音書 3章1節~21節

 

 

 おはようございます。 お帰りなさい。

 

 キリスト教では「新しく生まれる」と、よく言います。はじめてこの言葉を聞いた人は、いったい、どういうことだろうかと考えるでしょう。 実は、イエスさまがこのことを話されたとき、ユダヤ教の知識を豊かに持つニコデモという人がイエスさまのところに来て、対談をしています。

 イエスさまは、彼に「新しく生まれる」ことについて、神さまの立場から話しをされましたが、神さまについて多くのことを知っているはずのニコデモは、イエスさまから説明されことを理解することができませんでした。 では、イエスさまは彼にどのようなことを話されたのでしょうか? わたしたちは、その言葉を聞いて、理解することができるのでしょうか?

 そのことを、聖書の言葉から聴いてまいりたいと思います。

 

 ニコデモは、ユダヤ教のファリサイ派に属する議員でした。彼は、ある夜、イエスさまを訪ねてきました。イエスさまが伝道活動をされていた時、イエスさまと出会う人はほとんど日中に出会っています。ところが、ニコデモは夜、訪ねてきました。ヨハネによる福音書で「夜」は、神さまの臨在から離れていることを表すたとえとして使われています。このことから、ニコデモの訪問はイエスさまに対する否定的な訪問だったことを表しています。

 さて、ニコデモはイエスさまのところに来てこう言いました。

 「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。」

 この言葉からいくつかのことを知ることができます。ニコデモがイエスさまを「ラビ」と呼んでいることから、イエスさまを教師として認めています。 次に、「神のもとから来られた」という言葉で、イエスさまの起源が神さまにあることを認めています。 そして、彼の言葉が「わたしども」と言う言葉で話されていることから、この言葉は、ニコデモが属しているグループの考えだということも分かります。 また、ニコデモはこの言葉から、イエスさまが行われた業は、神さまが共におられるからできることであって、自分たちのグループは、あなたのことをすべて説明できるという思い込みがあるとも受け取れます。彼の言葉は、自尊心に満ちた言葉でした。

 

 ニコデモの話しに対し、イエスさまは直接答えを返されていません。3節で、

 「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」

と言われています。

 「新たに」と訳されているギリシア語は、「アノーテン」という単語です。この単語には、「上から」という意味と、「再び」、「新たに」という2つの意味が含まれています。 この単語に2つの意味があるのはギリシア語だけで、日本語でも英語でもこの箇所を訳す時に、その意味が曖昧にされてしまいます。 しかし、ギリシア語の意味をふまえてこの聖句を読むなら、この世に生まれた人は、「上」。 天からの働きによって、「新たに」その生き方が変えられて、はじめて、「神の国」。神さまが支配される時間と、神さまがおられる場所の中に入ることができる、と言われたことを理解できるようになります。

 ヨハネによる福音書は、他の共観福音書と違い、福音書記者が自身の属する信仰共同体に語るために、自分の信仰の言葉と、イエスさまが語られた言葉が組み合わされています。このために、他の福音書よりも理解するのに時間がかかる時があります。しかし、よくよくひもといて読んでみると、福音書を読む人に、大切なことを教えていることが分かります。

 

 さて、イエスさまが取られた行動について、信仰共同体のメンバーがすべて理解できる、と勘違いしていたニコデモに、上からの新生が必要だということを教えられました。それに対し、ニコデモは、「生まれる」という言葉に注目し、肉体の誕生を再び繰り返して行うことはできませんと反対しています。 それに対し、イエスさまは、ニコデモが勘違いした、母の胎から子どもが生まれることに関する言葉で、新たに生まれるということを説明されました。5節

 「だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。」

 神の国に入るには、肉体の誕生を知らせる「水」と霊的な再生「霊」が必要だと教えておられます。「水」は、子どもがお母さんから生まれる時の知らせになります。また、肉体に「霊」が宿ることで、人となって生まれてきます。新しい命は、水だけでなく、霊から生まれます。これは、ユダヤ教を信じているニコデモにも理解できる言葉だったはずです。 また、初代教会と福音書記者は、この言葉は洗礼のことを指しているという理解を持っていました。

 イエスさまはさらに、ニコデモに8節で教えられます。

 「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」

 「風」と訳されているギリシア語は、二つの固有の意味を持つ単語で、「風」と「霊」の両方を意味する単語です。どちらも私たちの目で直接見ることはできませんし、その動きを正確に描くこともできません。しかしその存在を感じることはできます。たとえば、青い稲穂がなびく田んぼの上を吹く風の動きを、間接的に見ることはできます。

 イエスさまを訪ねてきたニコデモはこの場面の後2回ヨハネによる福音書に登場しています。9節にある彼の言葉は、この場面での最後の言葉です。

 「どうして、そんなことがありえましょうか」

 ニコデモは最後まで、イエスさまが教えられた言葉について、彼が持っている資格、自称している知識では、理解することができませんでした。

 10節のイエスさまの言葉は、それを皮肉る言葉で返しています。

 「あなたはイスラエルの教師でありながら、こんなことが分からないのか。」

 

 さて、11節からはイエスさまだけが語る場面になっています。 11節から15節では、イエスさまの死と復活、昇天による新たに生まれることの始まりが語られています。 11節で、イエスさまは、「わたしたち」という言葉を使われていますが、これは、福音書記者がイエスさまの言葉を通して、初代教会の証しをしているということを表しています。 

 12節の「地上のこと」とは、人間に関するものを指し、3節から8節で議論した「新たに生まれる」ことを指しています。そして、「天上のこと」とは、神さまとイエスさまに関することを言っています。 13節では、神さまから遣わされているイエスさまの権威を確立するために、ご自身を「天から降って来た者」と言われています。 イエスさま以前に、だれも天におられる神さまのところに昇った者はいません。13節の言葉は、イエスさまが神さまのところから降ってこられたことを強調しています。 そして、復活の後の出来事として起きた、昇天について、「天に上った」という言葉で表すことで、イエスさまが天と地の間を行き来し、両者を結びつけていることを教えています。

 

 14節で、モーセが荒れ野で蛇を上げたという出来事は、民数記21章にあります。シナイの荒れ野で空腹を覚えたイスラエルの民が神さまに対して不満を言い、罪を犯して命を奪われる罰を受けた時、モーセが神さまから命じられて青銅で作った蛇を高く上げ、それを見た民の命が救われました。

 「上げる」というギリシア語の単語には「引き上げる」「高める」という意味が含まれていて、イエスさまの十字架は、死による敗北ではなく、十字架の死が高揚。高く上げられることであり、十字架の屈辱が、実は高揚であることを表しています。 ヨハネによる福音書では、イエスさまの十字架刑、復活、昇天を一つの連続した出来事として理解しています。

 15節では、イエスさまが十字架につけられたことが救いにつながるということを明らかに語っています。ここで語られている「永遠の生命」

 「永遠の生命」という言葉を聞くと、わたしたちはすぐに死の後に与えられる生命のことを思いうかべます。 しかし、この命は、私たちが終わりの日に復活して、神さまと共に永遠に生きることだけを言っているのではありません。イエスさまを信じる者はだれでも、神さまの子としての命を与えられ、信仰を与えられた時から、すでに、その命は始まっています。 イエスさまが私たちの罪を贖うために、十字架の上で命を捧げられ、復活し昇天して栄光を受けられた。 このことは、神さまがこの世を愛してくださっているからです。イエスさまを信じることで、その人の人生が、神さまによって生きる人生へと変えられる、変えられた時から「永遠の生命」が始まっているのです。

 

 また、イエスさまを信じることによって、その人の本質的な変化が起きるのではありません。そうではなく、イエスさまのうちに明らかにされた神さまの完全な性質を認めること。 そして、そこからもたらされる新しい出発のために、信じる者が「新しく生まれた」と語ることができるように人生が変えられるのです。 イエスさまを信じるとは、イエスさまは神の子であると告白すること。そして、神さまがその独り子をこの世に与えてくださるほどに、この世を愛しておられることを信じる、ということです。

 イエスさまに示された神さまの愛には限りがありません。なぜなら、完全な死を迎えたイエスさまを、復活させて、天に上げて栄光をお与えになられたからです。 イエスさまにその愛を示された神さまは、ただわたしたちが神さまからの贈り物を受け取ることだけを求めておられる神さまです。 わたしたちがその贈り物を受け取るなら、その人は永遠の命を得ることができます。イエスさまにある神さまの愛によって、人はその人生を新たに形成されて、その人が新しく定義されるからです。

 

 さて、イエスさまを通して、信じる者に与えられる永遠の生命について語りましたが、それと同時に、この世における私たちの決断が、即、神さまの裁きになることをイエスさまは警告しておられます。

 18節から20節でそのことが語られています。

 「御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。

 光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。

悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。」

 

 救い主であるイエスさまがこの世に来られたことで、イエスさまと出会った人は、イエスさまを信じるか、信じないのかという決断を求められています。その中間はありません。 日本人の多くの人は、何かのアンケート調査を受ける時、3段階や5段階で評価してくださいと言われると、真ん中に丸を付ける人が多いと言われています。 自分の意見はどちらでもない、ということを回答することで、あたりさわりのない答えにしたいという思いを持っている人が多いようです。 しかし、神さまがわたしたちに問いかけておられることは、YesかNoの二者択一です。 どちらでもないという答えはできませんし、決断できない人を神さまがご覧になると、その答えはNoと言っている、というように見られてしまいます。わたしたちは、今、決断することをすでに求められているのです。 イエスさまを信じるならば、人は永遠の生命の贈り物によって現在を変えられますが、もし信じないならば、その人は滅んでしまうしかありません。

 

 イエスさまがこの世に来られたことで、すでに終末の時は始まっているといわれます。それは、世界が滅ぶ日が近いというのではなく、信仰の決断により、神さまの裁きを受けることになるのか、永遠の生命をいただけるのかという決断の時が始まっているということです。

 人はイエスさまとの出会いの中で、その人が下す決断によってその人生が左右されます。しかし、その分かれ道は、神さまがこの世界を愛しておられる、神さまの愛から生じているということを私たちは憶えておかなければなりません。

 どのような時でも、神さまの愛が永遠に続いているということを忘れずに、今週も歩みを進めてまいりたいと願います。