聖書 旧約:雅歌 3章6節~11節

    新約:ヨハネによる福音書 2章1節~12節

 

 

 おはようございます。 お帰りなさい。

 

 新型コロナウイルスの変異株が猛威を振るい、今までにないほど、急激に感染者数が増加しています。多くの人々は、今、不安の中に置かれていて、だれもが落ち着かない時を過ごしているのではないでしょうか。 わたしたちが、過去の歴史を振り返ってみる時、単なる知識ではなく、時代時代の人々が、その時どのような思いで過ごしていたのかを思い計る時、今のわたしと比較して見ることができるものがあります。

 2000年の長さを持つ、教会の歴史の中で、過去何度も大きな病を教会は経験してきました。6世紀頃の日本と15世紀のアメリカ大陸では、天然痘。6世紀と14世紀は、ヨーロッパではペスト。1918年は、「スペイン風邪」と呼ばれたインフルエンザなど。 どの時代でも、多くの人の尊い命が失われました。 しかし、それでも教会では、毎週、主のみ言葉が語られ、人々はその言葉と聖霊の働きによって力を得て、希望を失うことなく今日まで教会は立ち続けてきました。 ひと言では語りきれない、多くの病を経験し、古代はローマ帝国で、中世後半から近代にかけては日本で、大きな迫害を受けたキリスト教ですが、主イエスがいつの時代もわたしたちと共にいてくださり、励まし、支え続けてくださったゆえに、私たちの信仰は失われず、今の教会があります。

 

 さて、今日は、ヨハネによる福音書2章から御言葉の取り次ぎをさせていただきます。 今日の場面は、イエスさまと弟子たちがガリラヤのカナで行われた、婚宴の席に招かれた場面です。今、コロナ禍の中、結婚式場等を利用した披露宴を行うことが難しい状況が生じています。そればかりか、コロナ禍以前から、大勢の人を結婚のお祝いの席に招くということを避けて、少人数で結婚式を行う様子が、日本ではありました。 その状況とは違い、2000年以上の昔、婚宴の席に招かれる人は大勢いて、しかも、その宴席は数日間にわたって行われることが多くありました。

 「婚宴」ということに関連して、聖書を開いてみると、男女の愛について書かれている詩を収めた、「雅歌」という書が旧約聖書にあることがわかります。旧約聖書は39巻からなる書物です。どの巻も非常に格調ある言葉で書かれているのに、なぜ、「雅歌」のような詩が、旧約の正典として入れられているのか? 男女がお互いを愛情の対象として求め合い、その情熱を率直に歌い上げている恋愛叙情詩が、なぜ聖書にあるの?と思う方がおられるでしょう。 旧約聖書が今の形に正典がまとめられる時、最後まで正典に入れるかどうか迷った書物の一つが、この「雅歌」でした。この詩を読んでみると、その内容は、神さまの偉大な業を讃えるものでもなければ、民族の歴史を想い起こすものでもありません。 では、どうして、正典の中に綴じられたのでしょうか?

 

 「雅歌」という書のヘブライ語の書名は「シール・ハッシーリーム」で、日本語に訳すと、「歌の中の歌」、「最も素晴らしい歌」という意味があります。 「雅歌」は、ユダヤ教にとって最も大切な、出エジプトを記念する祭、過越の祭りで朗読されています。ユダヤ教がなぜ、この詩を過越の祭りで読んでいるかというと、この詩の中に隠された意味が秘められていると、理解してきたからでした。 ユダヤ教では、この詩に、神さまとその民であるイスラエルの民。キリスト教では、キリストとその教会の関係を男女の関係に於いて、この詩を読むということをしてきました。そういう背景がありますので、「雅歌」が正典の中に綴じられたというように考えることができるでしょう。

 また、キリストとその民の群れである教会との関係が、雅歌に集められた男女の恋愛でたとえられているなら、わたしたちとキリストとの関係は、愛に満ちあふれた、とても素晴らしいものだということです。 聖書の他の書物と違って、雅歌を読む時、意味を読み解けない言葉を調べる必要はあります。しかし、詩に読まれている暖かく、愛にあふれた情景を思いうかべながら、わたしたちがキリスト。 イエスさまとの関係を結んでいるということを頭に置いて読めば、キリストの愛がどれほど深く、豊かなものであるかということが、情景描写のように浮かんでくるでしょう。 聖書には挿絵はありませんが、雅歌の詩を読んで、心に浮かぶ情景を挿絵として、聖書の言葉をより身近に感じたいと想います。

 

 さて、ヨハネによる福音書2章ですが、「カナでの婚礼」「カナの婚礼」と名づけられた場面でイエスさまがなされた奇跡。水をぶどう酒に変える奇跡は、非常に有名な奇跡です。 ヨハネ以外の3つの福音書。共観福音書の初めの部分を読むと、どれも、イエスさまの福音の言葉から始まっています。そして、イエスさまが語られた言葉の後で、病人の癒やしなどの奇跡が行われています。 それに対し、ヨハネが福音書の始めに、カナでの奇跡を置いている目的。そこには神学的な意味がふくまれています。 ヨハネによる福音書は4つある福音書の中で最後に書かれた福音書です。共観福音書の視点とは違った視点から、イエスさまを見て、わたしたちに紹介していますので、連続講解説教を、他の福音書とどう違うのかという点に興味をもって聞いてみると、新しい発見があるでしょう。

 2章1節に、「三日目」という言葉があります。1章43節で、イエスさまがガリラヤに行こうとして、フィリポに出会って、弟子とした日から「三日目」にカナで婚礼があったと、位置づけています。

 マタイとルカによる福音書では、イエスさまの母の名前を「マリア」と紹介していますが、ヨハネによる福音書では「イエスの母」とだけ書かれていて、名前を書いていません。この箇所だけでなく、この福音書では、イエスさまの母親の名前が「マリア」だとは書かれていません。 福音書記者にとって、イエスさまの母親の名前は、福音書を読む人が知っていることは当然のこととして、名前を書いていないのでしょう。母親ではない「マリア」は、この福音書の中に登場しますが、その「マリア」とイエスさまの母を区別するために、あえて名前を書いていないのかもしれません。

 

 さらに、4節でイエスさまが話された言葉に、わたしたちは驚かされます。母親がイエスさまに、婚宴の席に出すぶどう酒が足りなくなったことを伝えたところ、イエスさまは、母親に「婦人よ」と呼びかけられました。 「婦人よ」と呼びかける言葉は、当時の言葉として、女性に対して失礼でも、敵意を持った言葉でもありませんでした。しかし、自分の母親に向かって、この呼びかけることは珍しいことでした。 自分の肉親に対する呼びかけではなく、他人に対して用いる言葉でしたので、イエスさまと母親の距離が遠いことを、この呼びかけは表しています。

 次に、4節の後半でイエスさまは、「わたしの時はまだ来ていません」という、不思議な言葉を言われています。イエスさまが言われた「時」という言葉は、終末論的な成就の時を意味するために比喩的に使われています。 終末論的な成就の時とは、神さまの国が完成する時。神さまの救いの計画が完成する時を指しています。その時を示すために「時」という言葉が使われています。イエスさまが伝道活動を始めたばかりの時でしたので、まだその「時」は来ていません。わたしたちはその「時」が、受難から十字架の死、復活、昇天という出来事で現されることをやがて見ることになります。

 

 さて、わたしたちは、大人になっても、しばしば、親から言われた言葉に従って行動を起こすことがあります。しかし、イエスさまがこの時、母から願いごとを言われても、そのことと、イエスさまご自身とは「かかわりが」ないと言われているのですから、母親の言葉は、イエスさまの行動を左右していません。イエスさまの行動は、ただ神さまによって支配されているということが、福音書記者によって示されています。 イエスさまの母は、イエスさまが断りの言葉を言われても、彼を信頼していましたので、宴席に招いた家の召し使いたちに、イエスさまが言いつけたことを、そのとおりにしてもらいたいと頼みました。おそらく、イエスさまの母と、婚宴の席を開いた家とは何らかのつながりがあったのでしょう。

 

 続く、6節からは奇跡の出来事が始まります。ユダヤ人は、自分の身体がけがれた時、水を使って清めの儀式を行いました。その時置かれていた、清めの儀式に使う水を入れた石の水がめは非常に大きいものでした。聖書の巻末の換算表から見ると、2ないし3目とテレスとは、78リットルないし117リットルの大きな水がめになります。灯油ストーブ入れる灯油を入れたポリタンクは18リットルまたは20リットルのものが多いので、灯油を入れるポリタンク4つから6つぐらいの容量が1つの水がめの大きさです。 その水がめの中に最初から水が入っていたかどうかは書かれていません。しかし、7節でイエスさまが水をいっぱい入れなさいと言われていますので、おそらく空の水がめにいっぱいになるように召し使いたちは水を入れたのでしょう。 そして、水が縁までいっぱいになると、召し使いたちにその水をくんで、宴会の世話役のところへ持っていくように、イエスさまは命じられました。召し使いはその言葉通りその水をくみ、世話役のところに持っていくと、世話役は水の味見をして、それが素晴らしい味のぶどう酒だということに気がつきました。 どの時点で、水がぶどう酒に変わったのかということはかかれていません。しかし、この奇跡は、イエスさまがどのような方であり、イエスさまから与えられるものがとても豊かなものであることを暗示しています。

 

 ユダヤ人たちが清めに用いる石の水がめは、「古い」器を象徴していて、その中に素晴らしぶどう酒ができたことは、「新しい」ものが豊かに満たされたことを現しています。 水をぶどう酒に変えたのはイエスさまですから、イエスさまが古い器の中に新しいものを豊かに注ぎ入れられたということです。 宴会の世話役は、召し使いたちが持ってきたぶどう酒は、花婿があらかじめ準備していたものだと思い込んで、花婿に声をかけます。

 「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました。」

 世話役は、この贈り物は花婿からのものだと勘違いしましたが、わたしたちは、終わりの日に教会の花婿として来られるまことの花婿であるイエスさまがこの恵みを与えられたことを知らされています。 旧約聖書では、おいしいぶどう酒が豊富にあることは、終末の時の恵みの象徴であり、神さまによる新しい時代の、喜びの到来を示すものとして書かれています。イエスさまは、旧約聖書で約束されていた方として、この奇跡を行われ、神さまから遣わされた方であることの「しるし」を現されました。 福音書記者ヨハネは、この奇跡をイエスさまの栄光の現れとして読んでもらいたいと考えています。11節にある「栄光」がそれであり、「最初のしるし」と訳されている「最初」と言う言葉は、日本語に直訳すると、「始めに」ではなく、「始まり」を意味する言葉が使われています。 イエスさまの栄光がわたしたちに示される時が、カナで開かれた婚宴の日から始まりました。

 

 共観福音書では、イエスさまの姿が白く輝き、栄光に包まれるという変容の出来事を記していますが、ヨハネによる福音書にはありません。そのかわり、神さまの栄光は、イエスさまの人生と業の中で絶えず現されていきます。 その最も大きな栄光は、十字架の死と復活ですが、イエスさまが伝道をなされた場面、場面で、その栄光が現されていることに注目して、この福音書を読んでまいりたいと思います。 

 古い器の中に新しく豊かなものが与えられたということ。今のわたしたちにも、この新しいものがイエスさまから豊かに与えられていることを信じて、心豊かに今週も歩んでまいりたいと願います。