聖書 旧約:エレミヤ書 31章31節~34節

     新約:マルコによる福音書 2章18節~22節

 

 あけましておめでとうございます。 お帰りなさい。

 

 さて、2021年が過ぎ、いよいよ2022年へと暦が進みました。

 皆さんにとって、昨年はどのような年だったでしょうか。私たちばかりでなく、新しい年を迎えた時、だれでも気持ちを新しくして、新たな年を過ごしていきたいと、そのように願います。 さて、皆さんはこの新しい年、どういった新しいものを求めていったり、新しいことを始めたりしようとされておられるのでしょうか? 聖書の中でも、「新しい」という言葉が出てきますし、その言葉を大切にしています。それは、わたしたち人間が、何か新しいことをしていこうというよりも、神さまが、「新しい」ことを始められるのだということに対する驚きと、その恵みが語られています。 では、神さまは聖書の中で、何を「新しく」始めようとされているのか。また、すでに「新しく」始められておられるのか? そのことを今日は聖書の言葉から、聴いてまいりたいと思います。

 

 始めに、エレミヤ書31章です。

 エレミヤの預言は、主なる神さまに従わなかったイスラエルと、ユダの民に対する神さまの罰を始めに語ります。それは、25章にあり、そこではユダの国の人々が、70年の間バビロンに連れ去られることを預言していました。しかし、その70年が過ぎると、主はその民を顧(かえり)みられる。と29章に書かれています。 イスラエルの国を祝福し、建て上げた神さまは、人々の不信仰の故に、国を滅ぼされ、再び建て上げられること。すべては神さまの御心によって、わたしたち人間の歴史が進んでいくのだと預言されています。 そして、エレミヤ書30章、31章は「慰めの書」と呼ばれている、イスラエルの民の帰還について扱っている箇所です。

 この書の中心部分は、30章5節から31章22節までです。 その箇所を読むと、預言が告げられている相手は、1世紀前にアッシリアによって侵略され、捕囚された古い北イスラエルであり、彼らの帰還に関する預言になっています。 しかし、北イスラエルだけでなく、バビロンに捕囚された南ユダについても言葉は告げられていて、ユダ北イスラエルとの関係で、主がアブラハムとその子孫に約束された土地への帰還を扱っています。

 

 では、神さまが、わたしたち人間に与えた罰を終わらせ、救いへと導く転換点はどこでしょうか。 もちろん、神さまのご計画の中には、初めから罰を終わらせる時が定められていました。それが70年という月日です。しかし、それだけでなく、わたしたち人間の罪の悔改めを主が聞かれた、ということもエレミヤの言葉の中に入っています。

 31章18節と19節の言葉をお読みします。

 「わたしはエフライムが嘆くのを確かに聞いた。「あなたはわたしを懲らしめ わたしは馴らされていない子牛のように 懲らしめを受けました。どうかわたしを立ち帰らせてください。わたしは立ち帰ります。あなたは主、わたしの神です。

 わたしは背きましたが、後悔し 思い知らされ、腿を打って悔いました。わたしは恥を受け、卑しめられ 若いときのそしりを負って来ました。」

 聖書は、人間が罪を悔い改めたので、その努力に報いて神さまが罪を赦されたという書き方をしていません。 しかし、神さまが罪を赦されることを決めておられたとしても、その前にわたしたちが罪を悔い改める必要があるということを聖書は教えています。 わたしたち人間の心が、神さまに対してかたくななままでは、わたしたちの祈りが聞かれることはありません。わたしたちの魂(たましい)が打ち砕かれ、神さまの前にへりくだり、神さまを心から礼拝する時、神さまはわたしたちの声に耳を傾けてくださるのです。

 

 北イスラエル王国と南ユダ王国は、歴史の中で互いに争うほど、その関係はよくありませんでした。しかし、北イスラエル王国がアッシリアによって滅ぼされ、捕囚された後、主なる神さまへの信仰を取り戻すために、宗教改革を行ったとされる南ユダのヨシヤ王。彼が即位し、国を治めた時代、627年にアシュルバニパル王が死んだことで、アッシリアの国力が弱体化していました。 その時、ヨシヤ王は南ユダの領域を北に拡大しようとしています。そのことは、列王記下23章で、北イスラエルの中の町、ベテルにあった異教の神の祭壇を壊し、アシェラ像を焼き捨てたという記事から読み解くことができます。

 北イスラエル王国に住む人々は、王がいた時代には仲が悪かった、ユダのエルサレムへの巡礼が中断されていました。しかし、国が滅びた後、預言者エレミヤが活躍する時代までに、巡礼は回復されていました。人々は、エルサレムを中心とした礼拝。主の栄光の復活を希望したのです。 しかし、ヨシヤ王は、エジプトの王ファラオ・ネコとの戦いで戦死し、彼の改革が実を結ぶことはありませんでした。そのため、南ユダ王国も北イスラエル王国と同じように崩壊へと至ってしまいます。

 

 国が滅び、バビロンへ連れ去られた捕囚の民に向けて、エレミヤは希望の言葉を語ります。エレミヤの希望は3つあります。

 一つ目の具体的な希望の内容は、エレミヤ書の中にちりばめられていますが、具体的には、「エルサレム」、「神殿」、「ダビデ王朝」の再興が南ユダだけでなく、北イスラエルの将来にとっても重要だということ。 

 そして、二つ目は、主が与えてくださった土地への帰還です。

 さらに三つ目のこととして、今日読んだ箇所に書かれている、主がその民と結んでくださる「新しい契約」です。

 主は、その契約について、エレミヤを通して、詳細な説明をしています。

 その契約には、北イスラエルと南ユダの両方が含まれている。新しい契約はモーセを通して結んだ古い(シナイ)契約と似ていない。律法はもはや教えられる必要がなく、民の心に刻まれているゆえに、すぐに従うことができる。主が今度も彼らの神さまであり、彼らはその民である。神さまは彼らの過去の罪を赦してくださる。そして、この新しい契約は永久に保たれるということです。

 

 エレミヤは「新しい契約」と告げていますが、よく読んでみると、完全に「新しい」のではなく、モーセを通して与えられたシナイ契約の改訂版であり、主の律法である契約条項に対する民の服従に依存したものになっています。

 主との契約に忠実である人々を主がどのように見ているかについて、エレミヤ書35章で、レカブ人の忠誠という小見出しで書かれています。レカブ人の先祖に命じられた「ぶどう酒を飲んではならない」という主の命令に忠実に従い続けていたことで、ユダの不従順な民と対比されて、レカブ人が永久に保たれることが書かれています。 35章の記事は、今日の箇所、31章31節から34節の契約による希望は、民の従順こそが永久に続く契約の真の基礎であることを教えています。

 聖書がわたしたちに教えていることは、あくまでも主なる神さまから伝えられ、命じられたことに従順でありなさいということです。

 

 さて、マルコによる福音書に移ります。

 今日読んだ箇所は、2章1節から3章6節まで続く、5つの論争の中の一つです。 福音書記者マルコは、イエスさまと敵対するファリサイ派の人々とイエスさまとの論争をこの箇所に集めて書いています。 福音書でよく登場している「ファリサイ派の人々」とは、「ファリサイ」という、日本語に直訳すると「分離された」という意味を持つアラム語を由来とするグループです。彼らは、この箇所で、イエスさまの主要な論的であり、彼らは律法を厳格に遵守にだけに心を向けて専念する民衆運動を組織していました。 彼らの活動が民衆を中心とした活動であったという点で、当時のユダヤ教の別のグループ。サドカイ派と呼ばれている貴族的な人々とは対照的な組織でした。

 

 マルコは、2章1節から12節の中風の人の癒やしと、3章1節から6節の手の萎(な)えた人の癒やしの間に、ファリサイ派の人々とイエスさまとの論争を入れることで、この論争を際立たせています。 マタイは、イエスさまがなされた奇跡によって病が癒され、悪霊が追放されたという、神さまの力ある業を示しただけでなく、討論においても、イエスさまに敵対する者に打ち勝たれた、力強い方ということを強調しています。

 今日読んだ箇所は、ファリサイ派の人々との討論の中心に置かれていて、古いことと新しいこととの対照および花婿が奪い取られることは、イエスさまの律法主義否定や、苦しんでいる人々のためには、進んで律法を置かす意志があるということを示していて、これがイエスさまを死に至らせる対立を呼び起こしたと示唆しています。

 

 今日の箇所は、断食についての討論ですが、その直前に置かれている、イエスさまと徴税人たちとの会食がこの討論の発端となっているように書かれています。 イエスさまは当時の社会的・宗教的に見捨てられた人々と交わることで、神さまが人々を憐れまれていることを実際に見せられたのです。 当時、徴税人は、異邦人と頻繁に接触するという理由から、不正直であり、また、祭儀的に不浄であると考えられていました。そのため、イエスさまが彼らを受け入れるという行いは、当時の根本的な宗教的確信や社会慣習を粉砕し、イエスさまに対する敵意を拡大させました。

 聖書に書かれている断食は、公のものと私的なものがありました。断食は、願いを立てる祈りの一つの形であり、また、嘆きと悔い改めのしるしでした。ファリサイ派の人々は当時、週に二度断食をしていました。ところが、イエスさまと彼の弟子は、その断食をしていないので、ファリサイ派の人々はイエスさまに論争を挑みました。 19節でイエスさまは、神の独り子である自分が今、弟子たちと共にいることは、やがて来る終わりの日。その時、人々がキリストを花婿として迎えるのと同じように、今、キリストがいるのだから、宴会の席でだれも、断食をしようとはしないのである。 しかし、やがてイエスさま十字架に架けられ、弟子たちから奪い取られる時がくるので、その時には、弟子たちも断食をすると告げています。

 

 イエスさまの新しい教えと新しい実践は、これまで教えられてきたことに基づく伝統的しきたりを壊してしまいます。 そのことを、古い革袋と新しい革袋。そして、古い服に織りたての布で継ぎを当てるたとえとして語られています。 マルコは、福音書の中でイエスさまが行われた奇跡を、イエスさまご自身が神さまから遣わされたであることのしるしというよりも、「神さまの力ある業」として示しているという視点で描いています。 その視点から今日の箇所を見ると、イエスさまが人々に教えている教え、行動は、神さまの御心がどこに置かれていて、わたしたちをどのように憐れみ、また、愛しておられるかということを力強く表しているものだということです。

 

 ファリサイ派やサドカイ派。律法学者たちは、イエスさまが指し示した新しい視点に気がつくことができませんでした。彼らに対し、当時の宗教指導者たちがこまごまと定めた規定をすべて守ることができず、汚れた者、不信仰な者と見られていた人々の方がむしろ、イエスさまの教えを素直に受け止めることができました。

 今日はこの後、今年最初の聖餐の恵みに与ります。聖餐の恵みはイエスさまご自身がわたしたちに与えてくださった大きな恵みです。わたしたちが目で見て舌で味わい、主の恵みを直接体験することができるようにしてくださった、とても大きな意味を持つ大切な聖礼典です。ですので、コロナ禍で中断を余儀なくされていた聖餐が、再びできるようになったことは、とても大きな恵みとして味わい知ることができるでしょう。

 イエスさまが「蛇のように賢く、鳩のように素直であれ」と言われているように、どのような時代であっても、聖書に記されている主の御言葉から、わたしたちが今、何を問いかけられていて、どのようにすれば神さまに従順にお従いすることができるのか。

 そのことが、今までとは違った、「新しい」ことのように見えても、御言葉に聴いて、祈り、与えられた答えであれば、勇気と希望を持って行うことができる新しい年であるように、願いつつ今年の歩みを始めてまいりたいと思います。